石地蔵
何もしないと筋肉の信用残高が減っていく。残高が減ると口座を維持するだけで、手数料を取られる。入院生活で減った残高を取り返すための日課、毎日腕立て伏せ100回、スクワット200回。筋肉の信用残高を増やさないと、理学療法士の可愛い顔に笑顔の花が咲かない。もしかしたらこの笑顔に出会うために怪我をしたのかもしれない。山の神の計らいか?
山での伐採作業で出くわした事故は、まるで仕組まれていたように、山の斜面で起こった。今でも心をよぎるのは、その斜面の上にポツンと斜めに置かれた石地蔵。どうしてこんなところに剝き出しのまま置かれているのか?いつのまにか土壌から生えだしたつくしのように、そこに存在している。一瞬捕らわれた妙な違和感を振り払って、斜面に傾くように伸びた高さ20メートルの杉2本の根元にチェンソーの刃で受け口を入れる。その杉が斜面に倒れた先には民家の屋根があるが、そこまでは届かないだろうと計算して、追い口を入れる。民家の屋根にばかり気をとられて、全然意識になかった石地蔵。倒れた杉が石地蔵に当たるかどうかを一瞬でも考え、石地蔵をないがしろにしていなければ、この後に起こる出来事に違いがあっただろうか?。幸い石地蔵には当たらなかったが、結果良ければいいというのは、危険と隣り合わせのこの仕事では絶対にしてはならない言い訳だ。
その石地蔵が、作業行為に潜む危険を予知する能力不足を戒める鉄槌を私に下したとしか思えない。伐倒した杉を斜面で玉切りしていた時だ。石地蔵のすぐ下にあった丸太が、音もなく忍び足で私の背後まで、転がってきて、右膝にその重みを乗せた。脂汗が額に滲み、血圧が急激に下がっていくのがわかる。
別の見方をすると、石地蔵が私の思いを引き寄せたのかもしれない。その事故の前から、右膝の十字靭帯が緩んでいて、いつも右膝の事ばかりに意識が向いていた。できれば再建手術を受けて元に戻したいと心の中で願っていながら、そのままくすぶっていた思いが、石地蔵の一押しでの丸太による荒療治を引き起こしたのかもしれない。
全身麻酔で、深い眠りについた右膝の筋肉。その内部を探って修復されていく。石地蔵の計らい通りに。破壊と修復。眠りから覚めた筋肉は、新しい内部の配置に慣れるまで、苦悩の静観を強いられた。筋肉の生まれ変わりの成長痛。筋肉に刺激と負荷を与えるためのリハビリが始まる。
皮膚感覚を通して筋肉を意識するようマッサージが施される。その感触に筋肉が徐々に自由と力を取り戻していく。筋肉は全身の血液を喜びで満たし、筋肉でない部分にも元気を与える。筋肉の信用残高を愛の信用残高に変えたい思いが芽生える。さらにリハビリに励む。架空の愛の重みに耐えるように、息をつめて筋肉に負荷をかける。痙攣する限界まで負荷をかけると、糸につられたいも飴が、口元まで下りてくる。一度いも飴を口にした時の歓喜の興奮、そのうまみをまた味わいたくなって負荷をかける。筋肉はさらに重い愛のバーベルに挑戦する。そういう神経回路が再生されつつあった。
徐々に積みあげられた筋肉は、琥珀色の宝石箱になり、その箱の中で、赤いハート形の蝋燭が自らを燃やし、滴をこぼす。滴の熱さが、こちらの想いとなって相手の冷たい皮膚を通して徐々に伝わっていく。赤い蝋燭の炎が頑なな心を溶かし、静かに燃える。滴はすぐに固まり、赤い斑点になる。斑点が繋がり、その面積を広げるにつれ、秘めやかなカカオの香りが蕩けていくチョコレートから漂い始める。その香りを宝石箱に密封する、願いを叶えてくれるジーニーを封じ込めるように。リハビリ中にふける妄想をのぞき込まれているかのような視線を感じる。その視線の先には、脳裏に浮かぶ石地蔵の顔があった。その顔がふと笑顔を浮かべたような気がした。