年齢が止まること―『生きる意味』(上田紀行,2005)を読み続けて―
この間、一歳下の弟から、中学二年生まで住んでいた家の動画を送ってもらった。すでに廃墟のようになっている家。おととし一時帰国したときにも、いことたちと中に入っていた。いと子たちにとってはお化け屋敷のような場所だったが、私にとってはタイムマシンに乗って戻った場所だった。部屋ごとにいろんな思い出がよみがえってきた。懐かしい気持ちでいっぱいだった。
実際に入った時も、弟からの動画を見ても、身に染みて感じたのは、こんなに小っちゃかったっけ?ということだった。印象の中では、もっと広くて、天井がもっと高かった気がするので。それを弟に話したら、「子どもの頃は背が低くて、視野も狭かったからじゃない」と言われた。その一言に触発されて、「それに間違いないだろう。今は子供の頃の倍の身長になっているから見方が当然違うだろう。でも、なぜか今の心境は子供の頃と変わらない気がする。」と感じてしまった。それを弟に話したら、特に返事がなかったが、自分の中ではずっと考えていた。どんな心境なのかということを。
答えを見つけるのにあまり時間がかからなかった。小学校三年生の冬休みの前に期末試験の結果を確認しに学校に行った。弟がクラス一位だったか三位だったか覚えていないが、一つ上の私は確かに三位以降十位以内の順位だった。学校でも弟が生徒と先生たちの前で褒められたし、家に帰ったら、母親と家に立ち寄ってきた隣人にまた褒められた。私に対しては決して誰もが責めていなかったが、自分では、弟を褒めることは私を責めているように聞こえた。それ以降、勉強に励み、クラスも学年も常に一位であることを目指していた。そうできたら、当たり前のことだと感じ、できなかったら、もう自分はダメだと自分を責めていた。そんな繰り返しは今日まで続けている。
変わらない心境とは、やることが終わらない疲労、先が見えない暗闇、どこに行っても落ち着くことができない不安に包まれてきたような感じだ。それは、私の精神年齢が小学校三年生のあの時に止まったからだと思っている。
しかし、日本に来てからは、自分はもう子供じゃないと感じさせられた出来事もあった。一つは、日本に来た翌年、お母さんから、弟が結婚するのを教えてもらったとき。聞いた瞬間真っ先に感じたのは弟が結婚する喜びではないく、お母さんが年をとったという悲しみだった。「お母さんに年をとってほしくない」と叫びながら、電話の中で泣いてしまった。いまから考えれば、年にふさわしくない発言だった。でも印象の中では、お母さんはずっとあの家に住んでいた時の30代の女性だと思っていたから。電話の向こうからお母さんのすすり泣きの声が聞こえて、「人は年をとっていくもんだよ」と言っていた。自分にとっては衝撃な出来ことだった。
もう一つは、今年バイトをし始めて二、三カ月が経ってから、バイト先のおじさんにデートの誘いをされたときだった。あのおじさんのうちのお父さんより年上で、31歳の娘さんを持っている。怖くて断ったが、後で考えたら、あのおじさんは私を誘ったのは、私を心身ともに成熟した大人の女性として見なしてるからだと思った。私が怖くて断った理由は、年齢の差による違和感だったが、心の中では、自分はまだ大人の男性とデートできるほどの大人になっていないと思っている部分もあった。
先週、バイトにいったとき、年齢が止まったような気持ちをあのおじさんに話したら、63歳のおじさんは、四、五年ほど前におふくろがなくなられて、地元に帰ったとき、近所のお年寄りたちをみて、自分も年をとったなと感じたという話をしてくれた。「それまではいつ頃を生きていると思っていましたか」と聞いたら、「元気に働いていた30代だった」と答えてくれた。年齢が止まったように感じているのは私だけじゃないんだとわかって、ほっとしたが、なんで年齢が止まったように感じているのかを知りたくなった。
「自分はいろいろなことをやってきたけれども、『生きる意味』においては全く成長していなかったのではないか、常に『人の目を気にするいい子』を生きてきたのではないかと気づく」(p.145)上田先生の本の中の女性に共感する私。