会話の質と人生の時間を共有する価値

子供の運動会でのこと。
同じクラスのある女の子のパパ、ママが2人で来ていて、私の隣で子供の様子を見ていました。2人はにこやかに、男の子って違うんだねーとか、うちの子はこんなだねーと、会話をしていました。
きっと普段から、こういう会話がされていて、些細なことでもお互いに思っていることのキャッチボールをしているんだなぁと思ったのです。

私はというと、現在一緒に住んでいないパートナーとは、一緒にいた時でさえ些細なことのキャッチボールができませんでした。少なくとも自分はそう感じていました。
こちらは投げるのだけど、興味がなさそうに放り出されるとか、投げ返してくれないとか、例えていうならそんな印象だったように思います。
そのくせ、相手は話したいことを連投してきて、投げ返すのにこちらが疲れてきているのに、お構いなしでさらに投げてくる。そんな感じでした。
趣味は合っていたのかもしれません。好きなものの傾向も似ていた気がする。けれど、日常・暮らし・生活のモノサシがちぐはぐで、ふとしたことの会話が合わない。

結局、子供たちが大人になって自立して行くと、家族の最小単位である夫婦へといずれ戻って行きます。その時に一緒にいる年月で補完できないほど価値観の差があれば、同じ空間で生活することが苦痛でしかなくなるんじゃないか。それを体現した夫婦の例も見たことがあるし、一緒にいることが辛いのに、人生の限りある時間を共有する価値はなんだろう…と思えて仕方がない。そんな疑問が膨れ上がったから今に至っているんだ、と思っています。

"いつもの会話"の質が、いずれくる将来の芽となるか、はたまた遺恨となるかの分かれ道なんだろう、と思えて仕方がありません。

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