こけらいふvol.17 プライド
twitterのリア垢を開くと、こっそりリムーブされていることが多い。自分の中になにか許容されがたいものがあるのだろう。
さて、もうすぐ5歳になる4歳児が職場に遊びに来ることがあり、彼を観察していると、そろそろ赤ん坊から子どもに、社会の中の一員として目覚めつつあるのが見える。自分もおそらくそんな感じだったのだろうと、消えかけている4-5歳の記憶から推察する。自分がそろそろ人間になって20年、改めて身の回りの環境、地球全体規模の環境に思いを馳せてみると、大きな変化があったな、と感じるし、自分がそれらの変化に、自分の価値観を変化させられてきたことにも気づかされる。
いい友人との出会いには、よいものもあれば悪いものもあるし、忘れてしまう程度のつまらないものもある。もはや友人でもなんでもない他者との出会いにも、よいものも悪いものも一生忘れられないようなものもある。
オンラインでの人との交流が盛んになっても同じことで、特に集団で話していたのが初対面なんて場合、だいたい忘れている。それは往々にして、私がしゃべりすぎているせいだと思うけれども。
話は変わるけれども、環境や友人に考え方を変えられたことの一つに、たばこについての考え方がある。吸い殻がくさいからあんまり吸わないでほしいと思いつつ、たばこ休憩というもので様々な出会いや人より多い休憩時間を捻出しているのを見ると、賢い時間の使い方のような気もしており、たばこなんて吸えるなら吸った方がいいんじゃないかとさえ思うが、当方虚弱体質であり、そもそも煙も好きではないし、chillを一切理解しておらず、同時に複数のことをすることにも適性がない。同じ、ぼんやり思考する時間なら、せわしなく動きながらがいいため、散歩にしろ、家の中を歩き回るにしろ、人としゃべるのに口を動かすにしろ、動いていたいような気がする。
たばこ、吸うことは悪い、ということをあえてとりはずして考えても自分にたばこを吸う才覚がない、というのは残念な発見であった。
そういえば、元彼についての未練は、まだある。付き合っていたころよりも、別れてからの方が好きである。いいところも別れてからの方が思い浮かぶ。悪いところは付き合っている間の方がよく見えていた。こうして思い出が美化されるのか、とも思う。
本当にずっと、自分のプライドと戦ってばっかりで、本当に好きだったぬくもりを、失ってから恋しく思う。
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