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⑧ぶどう畑の真ん中でー12歳で単身アルザスの小さな村にあった全寮制日本人学校へ -フランスにある日系全寮制学校の不便さ生き辛さ

8 フランスにある日系全寮制学校の不便さ生き辛さ


アルザス成城学園の最大の特色は、フランスのぶどう畑の真ん中にある、日系の全寮制の学校であるということだ。日本から来た12歳の日本人の女の子が、親元離れて全寮制の学校に行くこともあまりないような気がするが、それがフランスにあり、周りにはぶどう畑しかない、そして、そこはフランスにあるのに、小さな日本だったということだ。

そしてそれだけではなく、私が入学したその年はその学校の開校だったということだ。だから最初の数年は試行錯誤しながら色んなことが変化していった。

開校1年目、学校は修道院だった本棟に教室も、寮も、食堂も、講堂も全てが1つの建物の中にあった。

そして寮はその本棟2階に男子、女子がABC3棟に分かれ原則は中学1年生から高校2年生までが縦割りで同室となり、1年間ずっと同室だった。開校当時、誰のことも知らず、分からぬまま私は中学2年、3年、高校1年の生徒と同室だった。運よく皆良い人達だったし、同じようなタイプの人達が集まっていたので、過ごしやすかった。どうやって部屋割りを決めたのか分からないのだけれど、恐らく今考えてみると出席番号順かなにかだろう。そしてその後たまに例外での部屋替えなどがあった。

2年目からはくじ引きのような形で部屋決めが行われたが、今考えるとこれにも色々からくりがあったように思う。もしも本来の形のくじ引きであったのなら、その場で公にくじを見せて部屋が決まるはずなのに、後から部屋割りが発表された。だからそれは運ではなく、先生や生徒の代表が裏で色々しており、ある程度はくじ引きでもあったのかもしれないが、くじ引きという名の裏工作がされた部屋決めだった。

教室も建物の2階と3階にあったのだが、建物の中では日本の学校のように授業が始まる前と終わりに鐘が鳴り、鐘が鳴ってから部屋を出ても教室に間に合うくらいの場所だった。通勤、通学の問題というのがあるが、この学校に来てからは建物から出ることもなく数秒で教室に行くことができた。そんなこともあってか、この学校の規則の一つに

【学校内での服装は寝巻と運動着は禁止】

というものがあった。

部屋は通常4人部屋。部屋は狭く、2段ベッドが2つあり、その間に人が一人座れるくらいの隙間があり、ロッカーが一人一つ、部屋には洗面台が一つ付いていた。そして部屋では毎週掃除が各部屋の住人によって課されていた。自分のスペースはベッドの上だけだった。けれどこのベッドにもカーテンなどもなく、一人きりになれるようなスペースは部屋の中にはなかった。

さて、私達の毎日の生活はというと、毎朝6時半起床、7時朝食、8時から3時まで1時間の昼食をはさんで授業が続くという毎日だった。規則としてご飯は必ず食べないといけなかったが、偶に寝坊などしたりして、このご飯の時間を逃してしまうともう食事が食べられないということになる。それはそれで大変だった。冷蔵庫も何もないし、近くにコンビニがあるような生活でもないため、なかなか簡単に何か食糧を買う事もできない状況だった。

授業の後3時から6時までは自由時間で、この時間にクラブ活動もする。こういう所はとても日本らしいかった。生徒たちはこの時間にスポーツをやったり、居室でギターを弾いたり、図書館で本を読んだり、談話室でビデオを観たり、村の雑貨店に買い物にでかけたり、と思い思いに過ごしていた。それでも3時間しかない自由時間では行けるところも決まっているし、6時が門限で、学校の門が閉まる。その後部屋で点呼があるので、門限は守らなければならなかった。

小学校を卒業したばかりの中学1年生、12歳の私には6時の門限でもあまり問題が無かったのだが、高校生にしたら6時の門限なんて早すぎて退屈だったんじゃないだろうかと思う。学校の毎日は結構スケジュールがぎっしりで、あまり自由な時間もないような、でもこんな田舎の村で、ある意味閉じた空間でやることも少なく、暇をもてあます時間もあった。

点呼の後6時から夕食、7時20分に居室に戻って清掃、7時半から順次入浴して、その後は自習時間、10時半に就寝というスケジュールで毎日が過ぎていった。スケジュールを立てたのはこの学校が出来上がる前の先生方であるが、この自習時間も最初は大問題だった。

部屋には机を置くスペースもなく、自習しろと言われても、自習する場所がなかった。「図書館に行きなさい。」と言われても130人以上の学生が座れる場所もなかったし、結局最初のうちは教室に戻って勉強することになった。とは言え、教室に皆が戻って勉強しようとしても、それはただの教室に集まる生徒たちがワイワイ騒ぐだけで、真面目に勉強ができる環境ではなかった。

それでも私は最初のうち、どうしても早くフランス語でコミニケーションが取れるようになりたくて、フランス語の先生を捕まえては教室でフランス語を教えてもらっていた。今考えると、先生もよく教えてくれていたが、夜の自分の自由な時間まで奪われてかなり迷惑だったんじゃないかと思う。

本当に最初のここでの生活は修学旅行の延長な感じなところもあった。けれどオトナがずっと一緒にいる生活ではないこともあり、この学校ではどんどん生徒だけのコドモの規則が出来上がり、とても不思議な空間でもあった。

食事に関しては、一番ショックだったのは朝ご飯だった。最初パンとバター、それとジャムが2種しかなかった。これに温かい牛乳とお湯、カフェと紅茶とホットチョコレートという所謂コンチネンタルブレックファーストで、最初にうちは良かったのだが、これが毎日続くというのはかなり辛かった。生徒は少しずつ色々工夫することを覚え、バターにホットチョコレートの粉を混ぜてチョコレートスプレッドのようなものを作ってみたりもした。
日曜には菓子パンが出るので、皆喜んでいた。また、徐々にバターだけではなく、クリームチーズなども出るようになったが、それでも私がいた3年間はかなり簡素な朝ご飯が続いた。

昼食と夕食は基本的にフランス料理。とは言え、フランスの学食の料理だった。フランスっぽいものもあれば簡単なローストチキンとかローストポークみたいなものもあったし、それにぐちゃぐちゃに煮た野菜が付いていた。野菜の一つのような感じで、ご飯が出てきて、必ずパンが付いてくることには小さいながらにちょっと驚いた。ご飯もパンも主食なのに、両方出てくる。フランスではフランスパンは必ず付いてくるものなんだと思った。

基本的には食堂のご飯を外に持ち出すことは禁止だったが、パックされたチーズなどは偶に持って帰って、小腹が空いた夜などに食べたりもした。ただし、部屋に冷蔵庫などがあったわけではないので、たまにそのチーズがポケットの中で溶けてしまったりもした。

日本食に関しては家庭科経論でもあったフランス在住の長かった先生が食事や掃除、洗濯をしてくれていたフランス企業、ソデクソとの連絡役としてすべてのメニューを指導し、時には日本食のカレーライスやカツ丼なども提供されるようになった。それでも生徒の多くは喜んでいたが、フランス人の作るちょっとインチキ日本食は実は私個人の口には全然合わなかった。日本にいても、家庭料理はよく食べるが、逆に白いご飯以外が苦手だった私にはカレーライスやカツ丼的なものがとても苦手で、それにご飯自体が日本米と異なるため、逆にシンプルなフランス料理として出されていたローストチキンとサラダとか、の方が口に合った。また、チーズも好きだったので、食事そのものが美味しくないと思った時には、フランスパンとチーズを食べていた。そのせいか今でも「何かあってもパンとチーズさえあれば生きていける。」という感覚が身に付いてしまった。

そんなソデクソの日本食も、年数が経つにつれ、かなり本格的な日本料理も週に何回かは出されるようになってきたようで、卒業生の中にはソデクソの食事を懐かしむものも多いそうだ。

寮生活では、男子は本館二階、女子は三階に居室があったが、居住空間が狭いこと、トイレやシャワーの設備が少ないことが大きな悩みだった。まずベッド数に対して居室が狭いこと、机なども部屋になく、勉強する環境すら最初整っていなかった。

トイレ、シャワー室に関しては、女子寮は3つの棟に分かれていたが、その全ての棟にたった一つのシャワー室しかなかった。トイレは3つ。最悪トイレだけは教室近くなど他のところにも行くことが可能だったが、シャワーだけはかなり大きな問題だった。

シャワー室には簡易シャワーみたいなものが2、3つあるだけで、それを40人以上いる女子が時間内に入らなければならなかった。だからほぼ必ず誰かと一緒に入るようにはするが、限られた時間で皆が入ることも難しかった。この寮生活のお陰で私は日常的に行う全てのこと、トイレ、シャワー、食事などの時間がかなり短くなり、それは今でも変わらず、朝の準備などびっくりするくらい早い。

寮に関しては最初の年度は、寮監が中心となって、寮の中に部屋を持つ先生、養護の先生、若い助手教員、宿直の先生が夜の寮の運営に当たっていた。恐らく寮に居た先生は予想外に自分の時間も、自由もプライベートもなく大変だったんじゃないかと思う。今になって思うが、私はこの全寮制学校での生活の後も多くの場所で寮生活をしてきた。それが辛いと思わないでいられたのはきっとこの最初の寮生活のお陰だと思う。寮生活はかなり特殊なので、知らないでこういった仕事についてしまうときっとかなりストレスになるんじゃないだろうかと予想する。

そんな寮で生活する先生たちは、生徒たちからの勉強の質問、個人的な相談、電話の取次ぎなど席を温める暇もなく忙しかった。消灯時間が過ぎても、あっちの部屋から電気がもれ、こっちの部屋から話声が聞こえると言う調子で、1年中修学旅行の付き添いのような勤務だっただろう。もちろん、先生たちは一人部屋で、門限はなく、ある程度の自由はあったと思うが、そんな環境の先生方も大変だったがこの環境で生きる私達はかなり大変だった。兎に角プライベートの空間が全くないのだ。

そこで、しばらくして、木造二階建ての別棟を男子寮として独立させるべく改修工事を進め、75人文の生徒用居室、他に小体育館、自習室、2つの教員用居室が完成し、1987年度から男女別棟になった。そして女子寮、男子寮とで責任者が置かれた。どうして最初に気が付かないんだろうと思うのだが、いくら門限があっても、消灯があっても、禁止であっても、同じ建物に住む男女ならその部屋を行き来するのは当たり前のことだと思う。最初の1年目は本当にこの学校の規律というか秩序は結構なんでもアリだったようにも思う。

1988年には日本のある企業からの寄付で日本式の大風呂男子寮の一部分に完成した。これは曜日を変えて男女が交代で利用することになった。日本人として、お風呂に入れないということは大きな問題だ…。と考えたのだろう。けれどそう考えるのはきっとオトナだけであって、私みたいな小さい子は、お風呂がないことにあまり不便を感じていなかった。シャワー室にも一応湯舟があったので、お風呂に浸かるということは不可能なことではなかった。
よくある中高生の女子のように、ダイエットとして湯船に浸かって汗をかく、なんてことを何度か試したことがあるのを覚えている。それくらいで湯船につかりたいと思ったりはしたが、シャワーだけの生活がそこまで不便だとは個人的にはその頃感じなかった。

12歳という幼い年齢で日本を離れたメリットはこうした「日本らしい生活」そのものにそこまで拘ることなく、新しくこのフランスにある全寮制の学校の生活を受け入れることができたことだと思う。周りが考えるように、絶対お米を食べたいとか、日本食が食べたいとか、お風呂につかりたいというような要望は少なかった。けれどその代わりに普通の日本の女子中学生であったので、日本の雑誌が読みたいと思ったり、日本のテレビが見たいと思ったりすることはあった。

そんなフランスの中の小さな不便も多い日本の生活を送っていたのだ。ただそれは異文化であるからというよりは色々設備のことなど基本的なところでの不便から始まり、問題があると、その問題に気が付き、そこからそれを解決していく、生徒が先生の予想外のことをすればそこで新たに新しい規則ができていく、というような生徒も一緒に作っていくような学校だった。

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