⑩ぶどう畑の真ん中でー12歳で単身アルザスの小さな村にあった全寮制日本人学校へ-異郷の実験工房と国語の先生は言った。
10 異郷の実験工房と国語の先生は言った。
アルザス成城学園の日々はとても目まぐるしかった。日本を離れ、入寮し、そしてすぐに開校日を迎え、フランスのアルザスという地域に慣れる間もなく、開校五日後には授業が開始された。
全員同日に入寮し、かなり騒がしかったと思うが、その入寮後の騒然が、一気に学校の風情になった。どこかの村の学校のように、1学年が1学級しかなく、広々と明るい教室での少人数授業で始まった。特に、私が入学した開校の年は中学校1年生はたった18名、うち男子6名、女子12名、私の学年だけではなく、学校全体的にも女子の多い学校だった。
日本のどこか小さい村にある中学校のような人数で、教室が広く感じた。とにかくこの学校は日本の学校とも、フランスの学校とも異なる、ここだけのルールが多く存在していた。そして、海外経験や留学経験などもないような先生方の中で、海外在住者もいれば、日本から来たばかりの生徒も多く、それぞれの価値観も違うし、生徒だけではなく、手書きの「手引き」を配るガイダンスから始め、先生も戸惑う事が多かった。
特に、生徒が勝手にルールを作ってしまうこともあったし、きちんとした規則も、最初から多く存在していたわけではなかった。生徒が先生の想定外のことをして、そして、そこで初めて新しいルールができることや、生徒の意見がそのまま通ってしまうこともあった。
例えば、これは特に人数の少なかった中学1年生だけだったと思うが、席替の時は通常人、机も椅子もそのままで、人だけが移動するのだが、この少人数で教室が広かったこともあり、自分の机を決め、その中に自分の物を入れておき、教室の好きなところに、好きなように机を置いていた。列などもなく、前に座りたければ、前のほうに、仲良い子達が幾つか机を並べて、後ろが好きな子達は兎に角なるべく後ろに机を置いたりしていた。
例えば、私は視力が弱かったため、一番前の席を希望したが、一番前の席、という位置はなく、好きな場所に机を置いていたので、教壇の目の前にその隣に他にも前が良いという生徒と供に教壇の前に机を置いた。
そして、教室の真ん中あたりにぽつぽつと幾つか机と席があり、そして、教室の後ろが好きな子達は後ろの方に机を置き、広い教室にぽつぽつと机が並んでいるような状態だった。
フランスにあるその学校は、日本の学校とは本当に些細な違いでも、私にとってはそれが最初のカルチャーショックでもあった。小学生というまだ狭い世界で、そんな世界で生きていた自分にとって、フランスの、それもアルザスという異国の地はあまりにもかけ離れた場所だったのかもしれない。
例えば、日本でよくある黒板は、必ずチョークと黒板消しがある。しかし、フランスには黒板消しというものが存在すらしていなかった。学校に当たり前にあるものがこうして見つからないなんていうこともあった。確かに、この黒板消しは便利なのだが、掃除の時にはチョークの粉も舞うし、あまり便利ではない。そこでまずは音楽教室の緑板に白いエナメルで五線を描いたり、そして、黄色いチョークと黒板消しの代わりにびしょ濡れの雑巾を手に授業を始めるということになった。
その後記憶では大きなスポンジを水に浸してチョークを消していた。黒板が濡れているとチョークで書けないので、生徒の中にはわざとびしょ濡れになったスポンジで黒板を消し、次の授業の先生が黒板が乾くまで黒板に書くことができない、なんてこともあった。こんな狭い空間の中で、生徒は先生に対して多くのいたずらや、度を越えた嫌がらせなどもしていた。
ご自身も寮生活を経験したことがあり、ここでも寮にも住んでいた年配の国語の先生も、海外生活は初めてだったこともあり、色々多くの驚きがあったようだ。例えば、先生は独・仏講師の出勤簿の外国人ながらのサインを楽しみにしつつ、美術の授業での色彩学の講義に関心し、体育のダンスの授業には驚いたりしていた。
『方丈記』を英文でノートする生徒が居る学校で、独・仏の授業にはノングレードを取り入れていた。生徒たちはあまりにもやることのないこの学校生活で、ある意味仕方なく勉強する、ということも多かった。けれど学校が始まった時には自習室もなく、教室で勉強しなければいけない環境で、静かな場所を求めてトイレやシャワー室、階段まで勉強室にしてしまう試験勉強だった。
教室に戻って勉強しても良いと言われていたが、そんな教室では多くの人がいたら勉強に集中できず、結局人影まばらな教室ばかりだった。生徒にとって教室は学校で、寮に帰ってまた教室に行くことを懸念する生徒もいた。それもそうだろう、先生が考えるほど生徒はアバウトではない。中学1年生くらいの私なら良いが、高校生にもなれば、男子と女子には違いもあるだろうし、教室=学校ではきちんとしていても、一度寮に戻ってしまえば、部屋着になることもある。それからその恰好で教室に行って、男子に会いたいと思わない女子だっていただろう。夜の教室は修学旅行の延長のような状態で、本気で勉強したい生徒には良い環境だったとは言えないかもしれない。
私達の学校は、開校当時、まさにそこは『実験工房』と国語の先生が呼んだように、生徒も毎日がアイデアで生きる毎日だった。
特に食事関係に関しては、他にも多くのアイデアが出てきていた。例えばあまりにも品数の少ない朝ご飯に、バターとココアの粉を混ぜてチョコレートスプレッドのようなものを作って食べたりしていた。それから少しずつ朝ご飯にもクリームチーズが出てくるようになったりもした。
フランスのポテトチップは塩味しかなく、そこに粉のスープの素を入れて、ポタージュ味にしたりと他の味のポテトチップを自分で作ったりもした。そこからドンドン生徒は頭を使うようになり、電子湯沸し器を買ってその中でパスタを作るようになる生徒、電子簡易調理器具を買って簡単な料理を始める生徒もいた。そんなことをしていると、そういった調理器具使用禁止になっていった。
生徒にしてみれば、規則で禁止になっていないものは禁止ではなかったので、色んなことを試して、試してみては禁止になる・・・というような状況だった。
この学校の特徴は、本当に多く、複雑で、全寮制ということ、フランスのぶどう畑の真ん中にあること。それだけではなく、生徒の元々の環境が違うこと、そして、オトナが少ないことによって、ここだけの、コドモの規則が沢山ある、ここでしか通じない常識があった、そんな学校だった。
そんな複雑な環境の学校で私が学んだことは、通常の海外留学で学べることでもなく、通常の寮生活で学べることとも又異なっていたかもしれない。私が一番にここで学んだことは、どこでも寝られて、何でも食べられるようになったことかもしれない。
そして、マイペースで、ひとりでフラフラすることの多かった私は、そんな姿を見ていた国語の先生に「お前はいつも廊下をフラフラしているから、この先もヨーロッパでジプシーのようにフラフラ生きて行きなさい。」と言われた。そしてその通りに、私の人生は遊牧民のように数年おきに色んな国を転々とする、そんな人生になった。
12歳で親元を離れて、フランスのアルザスという場所に留学してしまった、というだけで、いつも驚かれる。この学校に行きたいと思ったのは自分自身で、それを決心したのは小学校6年生の11歳の時だった。そして、その学校に3年間滞在し、その後日本の高校へ通い、そしてその後イギリスの大学に正規留学した。
この時も18歳での留学は周囲に比べたら最年少に近かった。けれど、12歳で既に留学をしていた私にとっては18歳もすごくオトナに感じた。それ以降、又フランスに留学し、イタリアへ行き、一度日本に帰ってから、又イギリス、フランス、日本、フランス…と最期にはとうとうベトナムと移動してきた。
私がこんな人間であることに、周囲は「12歳からフランスに留学したからだ。」と思う人も多い。けれど、私は元々から多少変わり者で、「12歳からフランスに留学してしまうような」性格だったんだと思う。小学生が周りの友達や家族のことをではなく、自分のやりたいことだけを考えて将来を決めていく、ということは稀なことだと思う。そして、もちろんそれを許してくれるような家族を持っていたことも、運が良かったことなのかもしれない。けれど、裏を返せば私は本当は大事であるであろう家族や友達と言う人間関係をあまり大事に思っていないのかもしれない。
12歳から留学人生を送ってきていた私は、中学、大学、大学院と様々な留学を繰り返し、その間に自分の経験を生かし、留学期間中も、イギリスの日系寮制学校の寮監や、語学学校のマーケテイング、夏休みなどの日本の中高生に向けた語学短期留学のグループリーダー業務などの仕事をしてきた。自分が幼い頃に独り立ちして生きてきてしまったが、自分はその経験を生かして、多くの人の海外での暮らしや留学のサポートをしてきた。
そしてその後、ヨーロッパを離れ、私はベトナムで大学講師となった。どこでも寝れて、何でも食べることができると言っていた私は、今度はヨーロッパから離れて、別の大陸でも生きていけるのか、と思ったことと、留学の集大成で今度は大学での仕事を選択した。
じゃあ、私は強い人間かというと、そんなことはない。小学校の時も、目立たない、本ばかり読んでいるような子だったし、アルザス成城学園でも、クラスでもあまり馴染めず、他の学年の子と遊びながら、一人で好きな事をして、フラフラしていることが多かったような、そんな変った子でもあった。そんな小さい頃に海外に出てしまったことで、私は人を色んなカテゴリーの枠に入れず、人を人として接することができるようになった気がする。
自分は100%日本人であるが、海外経験ということを考えれば、人生の半分以上は海外暮らしをしている。誰かに会う時、その人がどこの国の人かということは、そこまで考えることはない。「日本人だから」「フランス人だから」「日本は…。」「フランスは…。」という発言もなるべくしたくないと思っている。ある程度国の文化や生活様式というのは関係していると思うが、それよりも、どの人も個人であると思うのだ。
そんなことを学べたのはこのアルザス成城学園での経験のお陰だと思う。そして、その学校が無くなってしまっても、私はこのアルザスという場所に感謝し、この場所に何か貢献できないかと思っている。だから、どんな形でも良いから、私はこの場所でできることをしている。そしてもう一つ、今は閉校になってしまった私の母校を、いつまでも忘れられないように、そう思って、このブログに残しておきたいと思ったのだ。
そんな私の手元に、今1本のワインがある。これは成城ワインという、ワインだ。このワインいは、元アルザス成城学園の前にあるぶどう畑を所有する、ビオデイナミワイン生産で有名なマルクテンペ氏の畑で、せっかく元アルザス成城学園の前にある畑で、彼もこの場所を「成城畑」と呼んでいたこともあり、せっかくだから「成城ワイン」を生産しようと、テンペ氏と一緒に成城ワインを生産した。
このワインを飲みながら、フランスの、アルザスのぶどう畑の真ん中に、日本人学校があったんだよ、そこではこんな生活が送られてきたんだよ、なんてことを話ながら、ワインを飲み、いつまでもいつまでも自分の母校のことや、このアルザスという地域のことを少しでも多くの人に知って欲しいと思っている。