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④ぶどう畑の真ん中でー12歳で単身アルザスの小さな村にあった全寮制日本人学校へ-開設の経緯~人生は「面白そう」で始まる、それはあるひとことから始まった

開設の経緯

人生は「面白そう」で始まる、それはあるひとことから始まった

私は12歳の時に単身でフランス、アルザスにある日系全寮制学校に留学した。それは、私が通っていた、東京にある成城学園という学校がフランスのアルザスに分校を設立したところから、この話は始まる。



どうして、東京にある成城学園がフランスのアルザスに分校を創立しよう、なんていう考えが浮かんだのだろう。それはある朝、日本の東京にある、成城学園高校の国語の先生だった先生が持ってきた日経新聞の文化欄の1つの記事から全てが始まったのだ。
そして、この先生こそが私の人生の恩師であり、私の人生の考え方や今のノマドのような人生に大きく影響している。

それは日経新聞に掲載されていた1つの記事から始まった

それではその学校が設立されたきっかけの日系新聞の記事とはどんなだったのだろう。
それは1984年7月7日、日本経済新聞の文化欄に「日本人に校舎を提供します~仏アルザス地方が寄せる熱いメッセージ」と言う見出しで、記事が載ったことがきっかけだった。

その内容はフランスのアルザス地方のオー・ラン県の開発委員長クライン氏の呼びかけで、以前サクレ・クール修道会の寄宿付きの学校を県が買い上げ、敷地3万7千㎡、石造り三階建ての校舎を無償で提供するというものだった。
この記事を読んで「おもしろそう。」と感じたのが、その頃、成城学園将来計画小委員会の委員であった高校の国語の先生だった。彼は、その後、この記事のコピーをその時代の高校の校長、学園関係者、卒業生有志数名に配って話題を提供したのだった。
普通だったら、もっと深く考えるかもしれない、そしてフランスのアルザスの小さな村で、学校を設立しようなんて、誰が考えるだろう。そして、そんな思い付きのようなことを、すぐに実行に移し、その記事をコピーして周囲関係者に配ったのだ。

その頃まだSNSもインターネットも普及していない時代、新聞は大きなメデイアだっただろうし、多くの人がその記事を読んでいたかもしれない。けれどその記事を見て何か実現化しようとしたのは、この国語の先生だけだったのだろうか。世の中には色んなチャンスや可能性が秘めている、それを目にすることは多いと思う。特に今のインターネット普及、SNSの普及を考えたら、その頃よりも更に多くの情報が普及し、世界中の多くの情報を手に入れることができ、誰でもが何でも発信することができる時代なのだ。
この国語の先生の行動力を聞いて、「面白そう」と何かに興味を持つこと、そしてとりあえず行動に移してしまうこと、の大切さが良くわかる。

そして、私はこの先生の「面白そう」で動いてしまう、そんな意志を受け継いで生きてきているんだろうと思うのだ。もしくは元々から「面白そう」という直感を元に、自分の思ったことを行動に移し、それが今の人生に反映されている、と思うのだ。国語の先生に似ていたから、彼を人生の恩師として、慕ってこられたのか、国語の先生に似ていたから、彼が私を気にかけて来てくれたのか…。
もしくは、私はこの先生の影響を大きく受け、現在の人生を歩んできてしまったのか…。私も、実はこの学校の存在を知った時に、自分から「行きたい」と家族に言った。それは、本当にただただシンプルに「面白そう」と思ったからだ。

そんな話をすると、周囲からも「11歳でそんなことを考えていたの?」と言われるのだが、私の人生は結構思いつきで成り立っているのだ。正にこの学校の設立の時のきっかけのような人生なのだ。思い付きでそれを行動に起こすか起こさなないか…。人は色々な理由を考えて、「やらない」という決断をすることが多い。それは今の生活を変えて、リスクがある中何か新しいことを始めるということは、なかなか難しいことだからだ。
この学校設立だって、元々のきっかけを話せば、なんともシンプルなことだが、それから学校設立までの道のりは大変なものだったし、今度は開校したらそれはそれで大変な日々が待っていることになるのだ。
それでも、何か新しいことを始めてその後にある不安などよりも、とりあえず行動するということの大切さ、それが人生を大きく変えることもある、ということを私はかなり幼い時に体験することができた。

思いは周りにちゃんと伝え、行動してみるもんだ

そしてなんと、高校の国語の先生が、1984年7月7日に掲載された日経新聞記事を目にし、周囲関係者に伝え、時過ぎること1985年5月31日の理事会、評議会にて翌年1986年の4月にアルザス成城学園中学高等学校(Lycée Seijo d’Alsace)が開校することが正式に決定されたのだ。
たった1つの新聞記事から、高校の国語の先生が記事をコピーし、周囲関係者に配布し、1年もしないうちに学校設立を決定し、その後1年で学校を創ってしまったのだ。
1回限りのイベントなどではなく、学校が設立してしまったのだ。それは恐らく企業を設立するよりも、家を建てるよりも、イベントなどを1つ開催するよりも大変なことではないだろうか。学校は教育機関で、文部科学省の認定を受けた普通の学校で、義務教育も含まれる中学、高校一貫教育の全寮制学校なのだ。通常の学校とも異なり24時間学校が運営されるような環境を、言葉も文化も分からないフランスの小さな村に1年で設立してしまうと決めてしまったのだ。

それがどれだけすごいことか、想像できるだろうか。今のように携帯電話もSNSもEメールもないのだ。LINEやFACEBOOKなどの通話ツールもないので、国際電話も高かったし、メールもないので恐らくFAXくらいではないだろうか。
そして、フランスのアルザス地方の情報なんてその頃今に比べたら全然情報はなかっただろう。それだけならまだしも、それはアルザス地方の都市、コルマール(COLMAR)やSTRASBOURG(ストラスブール)ではなく、人口500人くらいの小さな村のはずれにある、ぶどう畑の真ん中にある、以前サクレ・クール修道会の寄宿付きの学校 なのだ。もちろん、学校設立決定まで1年を要しているので、視察などもして、ある程度時間をかけて最終決定をしていると思う。それでも、「面白そう」という思いから、海外へ2年で学校開校してしまったのだ。それは大人だって、今よりもずっと大変だった時代だと思う。

そして、こういう時に人は何かしら自分だったらそれができない、という理由を考えてしまうこともある…。例えば言葉の壁や文化の壁、様々な自分だったらできないかもしれない理由を考えてしまうころがある。けれど、その関係者の皆さん、例えば発起人のその国語の先生は日本語しか話せない、海外在住経験者でもないのだ。そんな先生が、「面白そう」と思って、周りもそれを承諾し、一緒に学校開校へと進んでいったのだ。

それは運も味方する…2年間の経緯の詳細

そして、オーラン県の県庁所在地コルマール(COLMAR)の近郊キーンツハイム(KIENTZHEIM)にあるこの学校のことは、特に卒業生の一部から特に関心が高まり、元中学校の父母員会会長が最初に訪れた。同年9月には羽田元総理大臣が、EC議会のあるストラスブール(STRASBOURG)に行った際に、コルマールに(COLMAR)まで足を延ばして学校見学をしたそうだ。

そして同年10月には掲載新聞記事にある、アルザス地方のオー・ラン県の開発委員長クライン氏も来日して学園関係者との会合、11月には当時の学園長がパリの学会に出席した帰りにアルザスに寄って、実際に学校を視察した。
その結果、アルザスの素晴らしい環境と、オー・ラン県側の熱意に動かされ、この地ならば成城学園の新しい海外校を開けるのではないかと学園長も関心を高めたのだった。

そして翌年1985年1月の理事会はフランス、アルザスに学校を開校することに前向きに取り組むことを決定した。たった一つの新聞記事から、半年で海外に分校を設立することが決まったのだった。もちろん、この時期に偶々二者の権力者の方々がフランスに行く機会があり、学校に立ち寄る機会があったことなど運もあったと思う。

私も、どんなことでも思い付きも大事だと思うが、いかにすぐに行動し、そして何か大きなことが動く時には運も味方をしてくれると思っている。多くの偶然や必然が重なり、1つの大きなことが動き出すのかもしれない。

そして、その一つの記事から2年間、当然目まぐるしく、様々なことが動き、あっという間にフランス、アルザス地方、カイゼルスベルグ(KAYSERSBERG)近郊、キーンツハイム(KIENTWHEIM)のぶどう畑の中、サクレ・クール修道会寄宿学校の跡に、リセ・セイジョウ・ダルザス(Lycée Seijo d’Alsace)、アルザス成城学園中学校、高校が立ち上がったのだった。その間、どれだけ目まぐるしい状況だったのだろう、と大人になった今、考えただけでも頭がクラクラする。

ブドウ畑の真ん中で

フランス、アルザス地方、カイゼルスベルグ(KAYSERSBERG)近郊、キーンツハイム(KIENTWHEIM)とは、年によるが、人口800人前後の小さな、小さな村だ。今となってはアルザスワイン博物館などもあるし、2.5km先には2017年にフランス人が選ぶお気に入りの村 第1位に輝いたカイゼルスベルグ(KAYSERSBERG)があるようなところだが、村のはずれにあるこの学校は、1軒の雑貨屋さんがある村に行くにも1kmほど歩かなければならないような場所だった。

けれど、そんな時代に、そんな小さな村に、急に100人以上もの(恐らく開校時には130人ほど)の日本人がやってきたのだ。アルザスにしても、その村にしても、大きなニュースになっていた。小さな村だし、地方都市だったので、この学校での様々なイベントや日仏交流は地元の新聞にも取り上げられることも多かった。

開校後、結局このアルザスのぶどう畑の真ん中にあった日本人学校は、19年で幕を閉じた。1986年開校のこの学校はその後、バブル経済の崩壊後、日本経済の停滞に伴う現地日本人の減少と、少子化の影響から生徒数は急減し、、それに伴って2003年(平成15年)には中等部、2005年(平成17年)には高等部が、それぞれ順次廃止されて閉校となってしまった。

それは学校という組織としてはあまりにも短い期間とも言える。しかし、この国境の地、アルザスに暮らした教職員、生徒たちのとって、その数年の思い出は限りなく深くて大きなものだったのではないだろうか。けれど、時間の流れが早く感じる日本では、そんな学校の存在は恐らく忘れられつつある。
けれどこの学校は、この地に住むアルザス人にとって、そこにそんな学校があったことは今もなお周知のことなのだ。この学校に数年在校した私は、継続的ではないのだが、結局又このアルザスの地に戻り、今もなおこの地で暮らしている。そして今でも私が「アルザスにあった日本人学校出身なんだよ。」と言うと「ああ!」と言ってくれる現地の人も多い。特にこの村や周辺の村の人は、今でもこの地にあったアルザス成城のことを知っていてくれている。
このぶどう畑の村の人達にとって、突然やって来た日本人の団体は大きな出来事だったに違いない。また、2021年、アルザス地方のオラン県とバラン県が統合されCollectivité européenne d'Alsace - (CeA)になるまでは、この村にLYCEE SEIJO(アルザス成城学園のフランス語名称)の看板が残っていたのだ。


そして、そんな「面白そう」という国語の先生の思いから始まったこの学校に、私も「面白そう」と11歳の時に入学を決め、12歳で海外初滞在をしってしまったのだった。

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