③ぶどう畑の真ん中でー12歳で単身アルザスの小さな村にあった全寮制日本人学校へ-実は私はこの学校の卒業生じゃない
実は私は卒業生じゃないけれど~創立時の校長先生から
私は12歳の時に、アルザスにある成城学園という私立の日系全寮制学校に留学した。
けれど、実は私はこの学校を卒業していない。さも、卒業したかのように、今もアルザスに滞在しながら別の国に移動したりしながら、海外ノマド生活を送っている。けれど、実はアルザスには最初12~15歳まで、中学校3年間しかいなかったのだ。
もう閉校したこのアルザス成城学園、(Lycée Seijo d’Alsace)には最終的に566名の卒業生、102名の教職員がおり、設立時の校長先生は「それぞれの想いの中でリセセイジョウは素晴らしい学校だったと思う。」と述べていた。
色々あったが、確かに、私の人生に大きな影響を与え、今またちょっと変わった人生を歩んでいる私の人生の最初の一歩になった経験だった。ここでの経験では色々あったし、決してここで働いた全先生、そしてここに入学した全生徒にとって最適な学校ではないかもしれなかったかもしれないけれど、「素晴らしい学校だった。」と私も言いたいと思う。
この「ひとこと」の抜粋は成城学園構内、それもアルザス成城学園関係者のために制作された「アルザス成城学園史」の一文だ。実はこの 『アルザス学園史』の【ひとこと】に書かれている『566名の卒業生たち、102名の教職員』には私は入っていない。私はこの学校に入学したが、卒業生ではないからだ。私は中学校は卒業したものの、中高一貫教育であったこの学校では卒業生というのは高校を卒業した生徒のことになる。
だから、私はこの学校に入学はしたものの、高校3年生まで在校しなかったので、この学校の卒業生ではなくなるのだ。中高一貫教育であったこの学校では、中学校の卒業式は簡単なもので、正式な卒業生はこの学校の高校を卒業した生徒になる。逆に言えば、中学校から入学していなくても、高校を卒業していれば、この学校の卒業生になれるのだ。
私はこの学校に開校から3年間在籍したものの、高校は東京校に戻ってしまったので、残念ながら私はこの学校の『卒業生』にはなれなかったのだ。
そういうことで、私を含め、もっと多くの生徒が、この学校には入学し、その後、途中退学、転校している。そして、逆に言うと途中で入学したものでも、この学校を卒業していれば上記の『566名』には入っているのかもしれないのだ。
それにしても「卒業生」ではない私が、今もなおこうしてアルザスにいる私はきっと、周囲には誰よりもこの学校を愛し、きちんと卒業し、そしてその後もアルザスに在住しているような印象を与えるが、実はこの学校に中学校1年生から3年生までいたが、その後は日本に帰国してしまったのだ。そして、その後も大学はイギリスに行き、大学を卒業して、改めてアルザスに戻ってきた。
なぜ私はこの学校に6年間在籍しなかったのか
では、私はこの学校を「素晴らしい学校」と言いながら、なぜこの学校に3年間しかいなかったのだろうか。
それは、実は私はこの学校に在学していた時、そこまでこの学校を好きになれなかった。実はこの学校の環境があまり好きではなかった。せっかくフランスのアルザスにいるのに、この学校はまるで小さな日本だった。
日本の文科省の規定に沿った学校で、先生も日本人、授業も日本と同じ授業だった。
私はこの学校が文科省の規定に沿った、日系全寮制学校であることは知っていたものの、それでもフランスの、アルザスの文化にもう少し触れられる環境だと思っていた。
けれど学校の門は午後6時に閉まり、その後に点呼、それ以降は出かけることもできない。最初は誰でも入れるように開いていた門も、暫くして外部からの盗みなどの問題などもあって、その門は外部の人が入れないように閉まってしまったので、外の世界とも距離ができてしまった。
まだ携帯などもなく、外の人と友達になれたとしても、その後連絡を取るのにかなり大変な状況だったし、村の子供たちと仲良くなったものの、まだまだ言葉の問題もあったので、なかなか壁を超えるのは難しかった。
校門という壁、言葉の壁、文化の壁、学校の規則という壁…
その閉鎖された、環境ではフランスの文化も、フランス語もきちんと学べなかったことがとても嫌だった。私はフランスのアルザスに来たのであって、フランスにある小さな日本で生活したいわけではなかった。
そこで、できたら現地校に通いたいと思ったのだが、どうしたら良いかその方法はこの学校にいながら一人で見つけることもできまかった。親にも相談したが、「私はどうしたら分からないから、とりあえず日本に帰って来て自分でそういう学校でも探しなさい。」と言われたので、とりあえず日本に戻った。親だって、自分でどうしたら良いか分からないだからと言って、その時中学3年生だった15歳の私が、その後自分で色々探して、又留学してしまうとはその時夢にも思わなかっただろう。
アルザス成城を辞めた理由は、自分のやりたいことをするため
私はこの時「現地校に行って、ちゃんと語学を学ぶ方法を探すため」一旦、日本に戻ることを決めた。けれど私は結局その後、大学は諸事情でフランスの大学には進学せず、イギリスの大学に留学することになり、20代になって又このアルザスの地に戻ってきた。(イギリス留学の話は又いつか)
そして、最終的に大学卒業後、改めて今度は現地の学校に通い、アルザス文化や生活もきちんと学べるように、そしてもちろんフランス語もできるようになるために、ストラスブール大学に行くことを決めたのだ。それは15歳でフランスを1度離れてから10年経った後だった。
12歳からアルザスにずっと住んでいるように語っているものの、実はその後日本に戻り、イギリスに行き、そしてその後10年経ってやっとまたこのアルザスの地に戻ってきたのだった。そして、最初のアルザス成城学園滞在においては、実はそこまでアルザス文化を学ぶこともできず、もちろん、フランス語もままならず…その頃は決してアルザスが好き、母校が好きと思っていたわけではなかったのだ。
アルザス成城学園で得たもの
ただ、私がこの学校に来たことは後悔していないし、この学校に来て良かったと思っている。この学校に来たお陰で今の自分がいて、今もアルザスにいるような人生になったと思っている。
そして、私はこの学校で会った人生の恩師がおり、その恩師のお陰でアルザスでの3年間で学んだことも多く、そしてその恩師の教えで、その後もヨーロッパをフラフラ生き続け、そのお陰でまた20代になってアルザスに戻って来たのだ。人との出会いは本当に人の人生も変えると思う。
どこで何をしたのか、どんな人生を送ったのか、という環境も大切だけれど、私はこの学校で出会った国語の先生のお陰で、今の人生を生きていると思っている。
私は12歳でアルザスに単身で来た、というのはアルザスに来たから今の自分が形成された部分はあるものの、元々、12歳でアルザスに来てしまうような、ちょっと変わった性格をしていたんだと思う。
そして、そんな変わった子だった私はちょっと周りとは浮いている時があった。そんな私を受け入れてくれて、私の進む道にいつも背中を押してくれていたのがこの学校で出会った恩師だった。
ただし、実はこの恩師は私の担任でもなく、その先生のクラスも人生でたった1時間しか受けたことがなかったのだ。
それでも、たまたま私がいつも一人で廊下をフラフラしていた私を見つけて、気にかけてくれていた国語の先生がいた。それが今の恩師であり、12歳という幼い歳で外国に来てしまった私にとって、この恩師が私にとってはある意味人生の恩師であり、相談相手であった。
ただ残念ながらこの恩師はこの学校で働いていたのは1年だけで、その後日本に帰国してしまった。それでも、その後もずっと何かあるとその恩師に相談し、今でもその恩師とは交流がある。
へんな言い方をしたら、「親ガチャ」なんて言う言葉があり、子供は親は選べないし、学校の担任の先生は選ぶことはできないけれど、学校という環境でたとえ担任の先生でなくても、その先生に授業を教えてもらうことはなくても、「先生」として出会った人の中に自分の人生において大切な存在である人に出会うことがあると言うことも教えてもらえた。
そして、幼い時に、もしも自分の親に頼ることができなくても、もしかしたら「先生」の中で自分が頼れる「保護者」に出会えることがあるということも、知ることができた。私はいつも思い付きで生きているところがある。そして、オトナの予想外の野望に、周囲が反対する中、恩師だけは私の背中を押してくれた。いつも「自分の好きなことをしなさい。」と言ってくれた。
そんな私は周囲とも浮いてしまうこともあったが、そんな私が変わらず、私自身として生きていける自信を持たせてくれたいたのが、その恩師なのだ。
その経験が今の私の人生にもとても影響しているようで、私はその後ずっと後に「先生」という職業に就いたが、自分の「学生」に対して、何があっても彼らを「守る」立場でいたいと思って仕事をしていた気がする。それはきっと私自身が体験した恩師との出会いが関係していると思う。学生の中には家族との問題を抱える子もいるし、何か影を持っている
だから実際は私はこの学校の中途半端な在校生なのだ。けれどこうして今でもアルザスに残り、アルザスで生き、今度はアルザスの為に、日本へのアルザスPR活動をし、アルザスワインPRの仕事などもしている。
そして、やはり私の原点である、アルザスの小さな村に日本人学校が存在したこと、そしてその学校がどんな目的でどうしてアルザスに設立されたのか、そしてそこで過ごした一生徒だった私の生活や想いなども含めて、一人でも多くの人に知ってもらいたいと思い、こうして書き残して思うと思ったのだ。