5 ぶどう畑の真ん中でー12歳で単身アルザスの小さな村にあった全寮制日本人学校へ-開校への準備と入学志願
開校への準備と入学志願
そんなたった一つの記事で設立が決まったもののと、やることはたくさんあった。このアルザス成城学園は海外に作る中高一貫の私立学校としてはロンドンにある英国立教学院に次いで2校目だった。
英語圏ならまだしも、ロンドンという(実際は郊外だが)都心ならある程度便利でもあるが、この海外日系私立学校は本当にぶどう畑の真ん中に位置していた。
そのアルザスの校舎改築はその夏から大規模な工事が進められた。夏休みになると校長などを含めた何人かのスタッフがアルザスを訪れクライン氏を中心とするフランス人側スタッフと学校設立にあたっての諸問題を協議した。
この学校は日本人学校なので、日本の文部省(現在の文科省)の認定を受けなければならない、東京の成城学園では文部省との接触やアルザス校でのカリキュラム教職員の人事など翌年4月に向けての動きが始められた。
1985年11月17日アルザス校事務局の一行は現地での開設準備のためコルマールに入った。
キーンツハイム内の校舎内は、外見は綺麗に見えるものの、当初中は荒れていたが、工事も順調でその荒れた室内がきれいに変貌していく、そのれが大変大掛かりな工事であることがうかがわれた。
また、校内だけではなく、1つの全寮制の学校設立には実に多くの設備、備品が必要となり、教室・図書館・食堂など机、椅子、生徒用ベッド、事務機器、電気製品、暖房関係の備品など上げればキリがないほど必要なものがあった。
アルザス成城学園の進出はアルザスの地方紙だけではなく、リベラシオン、ヘラルドトリビューンなどと言ったメデイアでもかなり大きく報道されるようになり、受験志望者の親子の見学や地元の人たちの参観が多くなった。今となっては海外はとても近く感じるが、80年代にはまだインターネットもなく、海外がまだ遠く感じる時代だった。
そんな中、アルザスという田舎の地方都市に全寮制日本人学校が設立されるということは、その頃とてつもなく大きなニュースだったのではないだろうか。
生徒募集は東京で進められ、フランス、西ドイツ、などヨーロッパ諸国をはじめ、メキシコ、オーストラリア、ソ連、ナイジェリアなど多くの国から応募があった。
入試はパリで12月22日、23日行われたが、その後パリ以外で日本国内で受験する必要のある生徒に対しても入試は1月末に東京で行われた。その間に東京校からの生徒も、入試ではなく面接があり、私はその時にこのアルザス校に行くことが決まった。
その結果、私を含む中学1年生 18名、中学2年生 27名、中学3年生 25名、高校1年生 34名、高校2年生、28名の132人の入学が決まった。高校3年生については成城大学推薦入試の基準が高2、3年の成績が関係するため行われず、高校2年生が最高学年として始まった。
4月から中学生になる私はまだこの時11歳だった。実はこのアルザス校に行こうと思っていることを誰にも言っていなかった。決して大人びていたわけではないが、私はこの頃少し冷めた子供だった。
通常初等科から成城学園に入学している生徒はほぼ100%そのまま中学に進学する予定だ。そんな中、私はアルザス校に行くことを決めた。だから、できれば誰にも言わず、こっそり一人で皆と離れたかった。
いつもいつもマイペースで周りに流されず、自分がしたいと思ったことをする子だったのだ。それがここで大きく影響したのだった。周りは私がこの学校に行ったから、今のような子に育ったと思う人も多い。けれど、私は元から自分の好きなことを好きなようにして、あまり周囲を気にしない子だった。クラスの皆が外で遊んでいても本が読みたいと思えば一人教室で本を黙々と読み、先生に「お前は皆と外で遊ばないのか?」と心配されるような子だった。
友達はいたが、それでも、自分がしたいことは一人で決めて、一人でも好きなことをするような子だった。だから、今回のアルザス校行きも誰にも話していなかったのだ。
アルザス校行きが決まった時も、仲の良い友達にも、少し心の準備をしてから、いつか言おうとも考えていた。けれど、入学が決まった次の日、担任の先生が教室で皆の前で「アルザス校にこのクラスから2名行くことになりました。」と喜んで話してしまったのだ。生徒の驚きはかなりのものだった。私は本当に本当に先生を嫌だと思った。人の人生のことを、何故この先生は勝手に言うのだろうと思った。
けれど、今考えると、3クラスある中、この先生のクラスの2名だけが志願し(本来の志願者は私だけで、もう一人は先生が誘導したのだが)自分のクラスからこんな小さな子がアルザス校に志願したということは恐らくかなり誇らしいことだったかもしれない。それにしても、そう言う事を皆に言って良いかということは、本人に確認するべくではないだろうかと幼いなりに思ったものだ。
それくらい、学校にしても、そこにいた小学生にしても、今同学年の小学生の子が、あと数カ月でフランスの田舎に行ってしまう事はかなり大きな出来事だったのかもしれない。そんな私はと言えば、実は海外にも行ったことがなかったので、そこからパスポートと取ったり、VISAを取る為の準備などでバタバタしたのを覚えている。
そう、私は海外にも行ったことない、旅行にも行ったことない、パスポートすら持っていない、そんな子だったのだ。ただただ、たまたま私の通っていた小学校がフランスのアルザスと言うところに分校を設立することになり、そこに行きたいと思い、そして志願してしまったのだ。
もしも分校がアメリカにあればアメリカに行ったかもしれないし、アフリカだったらアフリカに行ったかもしれない。アイスランドだったら、アイスランドに行ったかもしれないのだ。
フランスと言う国のことは少し知っていたし、フランス語だという事も知っていた。けれどフランスに憧れもなかったし、海外に憧れも持っていなかった。ただ、気持としては親に引かれたこの人生のレールの上を大学まで歩んでいきたくはないと思っていたのだ。
じゃあ受験すれば良いじゃないかと思われるだろうが、幼稚園の時の「お受験」が辛くて、キツくて、厳しくて、もう二度と人生であんな思いはしたくないと思っていた。だから、受験はしたくない、けれどこのままずっと親が決めた人生を歩きたくないと思っていた。
そして、この学校のことを知ったとき、「面白そう」と思ったのだ。「11歳の子がそんなことを決めるなんて。」と言われることも多いのだが、それは逆だ。11歳だったからこそ、あまり深く考えず、「この学校面白そう、行きたい。」という気持だけで、志願してしまったのだ。よく「思い立ったら行動しろ。」なんて言うが正にその通りなのだ。あまり深く考えず、自分の「行きたい」という気持だけを優先した。ただそれだけだ。
そしてそんな考え方はその先も今も変わらず私の性格の元となっている。