②12歳で単身アルザスの小さな村にあった全寮制日本人学校へ-なぜ私はアルザスへ?「ぶどう畑の真ん中で」
エピローグ なぜ私はアルザスに?
海外ノマド生活を送る私は、最初に海外生活を始めた時は12歳だった。12歳で、親元離れて一人でフランスのアルザスに来た。どうして私が日本を離れ、親元を離れてフランスのアルザスに来たのだろうか。
自己紹介としてこちらの記事を書いているが
https://note.com/coquelicots/n/naa6ec3a85cad
そんなきっかけについて話したいと思う。
フランス行きを決めたのは11歳、フランスに来たのは12歳だった。
私がフランスのアルザスに来たのは、私が12歳の時だった。「12歳でフランスのアルザスに来た。」と言えば必ず親の仕事の関係でと想像されるが、実際は私は親元離れて単身でアルザスにやって来たのだ。
私はなぜアルザスに?
ではなぜ12歳のときに?アルザスに一人でやって来たか?
これも日本の特殊な学校システムの一つだと思うのだが、日本には私立の学校で、幼稚園から大学まで一貫の学校がある(風、と言うのは日本の受験はないが、学校内である程度の成績を取っていないと落第もあるし、成績が悪ければ途中で出されることもあるからだ。)
私はそんな東京にある、私立の一貫教育の小学校に入学した。日本独特なシステムだと思うが、幼稚園の時に毎日塾に通い、「お受験」というものをさせられ、そして、無事に私立の小学校に入学した。
無事に、と言えば最終的には無事にではあったが、幼稚園のまだ幼い頃、幼稚園の後6か月間毎日塾に通い、週末も家でドリルをして、大変な日々を送っていた。
そして、入学試験の時のことも今でも鮮明に覚えているが、その後合格発表では補欠2番だった。だから、ほぼ落ちたのと変わらなかった。けれど、3月になって、空きが出て、急に入学することができた。だから、この学校への入学は5歳の私にとっては本当に大変なものだった。
そんな風にして入った学校で、このまま平凡で穏和な生活を送りたいと考えれば、私はその学校で、そこそこ落第しない程度には勉強し、そのまま中学、高校、大学へと進み、他の大学生のように、就職活動をして、普通に日本で就職をしていたかもしれない。
けれど、私は小学生の時から、そんな親の決めた人生をずっと送りたくないと思ったので、12歳の時にアルザスに来てしまった。もちろん、もっと大きくなってから、日本の他の学校へ又受験することもできたかもしれない。けれど、幼稚園のあの受験の大変さを知っているので、これ以上受験を経験したいとは思わなかった。だからと言って確かに、何故フランスのアルザスだったのだろう。
アルザス行はたまたま
とても簡単に言うと、
「私が通っていたその私立のエスカレーター式の学校で、私が小学6年生の時に『中学校は本校の東京校か分校のアルザス校どちらが良い?』と聞かれたので、じゃあ、とアルザス校を選んだ。」
のだ。でもこれは本当に簡単にした答えだ。
そう言ってしまえば、簡単なことだけれど、もちろん、そんな簡単なことではなかった。
最初私はこの分校のパンフレットを見て、すぐに家族に「この学校に行きたい。」と言った。その時はこの学校に行けるかもわからなかったし、この学校に行ったらその先どうなるか、なんてことも分からなかった。
だから、よく親が行かせようとしたと思われることもあるが、「行きたい。」と言ったのは私自身で、最初家族は皆反対した。
そして、その暫く後に、小学校から中学へ進学するにあたり、東京校かアルザス校どちらか選択することができ、最低2年留学すれば又日本の本校へ戻ることができると言われた。
それは本当にある日、教室で担任の先生が「中学校進学時にアルザス校に通う事ができます。」と言われ、そこでまた改めて私は親や家族に「アルザス校に行きたい。」事を伝え、やっと親が本格的に学校に連絡をしてくれたのだった。
そのお知らせを学校できいた時には多くのクラスメートが「行きたい!」と言っていたものの、実際に志願したのは私だけだった。私は学校では特に活発で目立つ存在でもなく、いつも一人静かに本を読んでいるような子だった。だから学校でとても心配され、学校から他の学生にわざわざ誘致をして、最終的に2人のアルザス校希望者がいた。
その後、形式だけの面接があり、新中学1年生から新高校2年生まで東京校から数十名の参加者と共に私はこのアルザス校に行くことが決まった。中学生、高校生の希望者はそこそこいたけれど、さすがに小学生での希望者は少なかった。
そして、そんな小学生には規定として、東京校からの生徒は最低2年はアルザス校で勉強し、その後希望があれば東京校に戻れるという条件が親にとっても親を安心させる条件だったと思う。12歳の私がこのまま高校卒業の18歳まで6年間、そのまま親元を離れるというのはかなりショックなことでもあっただろう。でも2年(以上)と考えると親にしても多少行かせやすくなっただろうと思う。
家庭環境とフランス行き
そこで、私はまだ変わらぬ自分の意志を家族に告げ、なんとか了解を得てこの学校の入学申し込みをした。ここでもう1つ周囲に言われることは
「それだけ家が裕福だったんでしょう。」ということだ。
そう…かもしれない。けれど私はこの時本当にラッキーだったんだと思う。
今の父親のアメリカ転勤が同時期に決まり、祖父母の面倒を見なければならないと母は日本に残ると決めて、この時父親の単身赴任が決まっていた。
日本から海外転勤になると待遇も良くなり、普通のサラリーマンでもかなり裕福な状況になる。また、祖父もまだ働いていて(これまた自分で会社を設立していたようで、亡くなるまでちゃんと給料の入る生活をしていた。)ある程度金銭的サポートを家族にしてもらえる状態でもあった。
だから家族も
「じゃあ、皆バラバラでも良いかな。」
と考えてもらえて、賛成してもらえた要因の1つだった。もしもこの時に父親の転勤がなければ行けなかったかもしれない。そして、運が良く祖父もまだ現役で働いてくれていた。おかげさまでそんな祖父は亡くなる100歳までお給料の入る状態で仕事を継続していた。なんともタフな祖父だった。
そんな色々な諸事情が重なったこともあって、家族は私をフランスに留学させてくれたのだ。
世の中は本当に運命、というか、縁やタイミングというのがあると思う。そして、小学生の私が何カ月もその学校に行きたいと、まだ行けるかも分からない、そんな状態のころからアルザスにに行けると信じて、ずっと家族に「行きたい。」とお願いして、その気持ちが軽い気もちではないということも家族に伝わってくれたと思う。
この学校が存在するということを知ったときから、親にずっと「この学校に行きたい」と懇願した。私はまだその時11歳だったし、親だって、他の家族だって、それはそんな何も考えていない幼い子供の一瞬の願いだと思った。けれど私はそれから数カ月に渡りずっと「アルザス校に行きたい。」と言い続けていたのだ。
そういうこと全てに感謝しながら、私は本当にひょんなことから12歳で単身アルザス留学をしてしまったのだ。行きたいと思った時私はまだ11歳。行くのが決まった時も実はまだ11歳。そんな私の人生はちょっと変わっているようだ。
どんな子供だったのか?
11歳で単身アルザスに行くなんて…よっぽどしっかりした子供だっただろと想像されるかもしれない。けれど、私はクラスで一番小さくて、細くて、すぐ保健室のお世話になってしまうくらい、か弱い子だった。
どちらかと言うとみんなでワイワイ遊ぶタイプでもなくて、一人静かに本を読んでいる方が好きだったし、好きなことをするために、一人でなんてもしてしまう、マイペースな子だった。親もちょっと心配するくらい、静かでマイペースだった。
そして、今もそうなのだが、私はきっと人生を思い付きで生きてきたところもあり、私は「面白そう」と思った方に流れていく傾向があるんだと思う。そのため、私の人生には『安定』という言葉はない。私は『安定』の代わりに『自由』を選んで生きており、それは今でも変わらないだろう。
私の人生がちょっと変わっているのは、フランスのアルザスに単身で日系全寮制学校に来てしまったから、とも思われるがきっとそれだけではない。
考え過ぎと言われることも多いが、マイペースで、元々少し周りとは馴染めていない、変わっている子で、だからこそフランス、アルザスにある日系全寮制学校への留学を「面白そう。」という気持ちだけで、決めてしまったのだ。もちろん、その学校での体験は、私のその後の性格形成や人生に大きく影響したことは否めない。
ただ、一つ言えることはこういう性格だったから、12歳で海外に行こうと自分で思ったし、その決断をしたと思う。だから、もちろん元々の性格もある程度関係していると思うし、このフランスでの経験が、その先も、今もこうして海外生活をしているという私の人生に影響していると思う。
この学校で得たもの
この環境で、フランスのアルザスと言う場所に3年間留学し、私が1番得たものはフランス語力やフランス文化理解ではなかったかもしれない。
アルザスの、小さな日本、子供しかいない環境。そこは日本でもないし、フランスでもない、アルザスでもない、とても不思議な環境だったと思う。まだインターネットもない時代、かなり閉鎖された環境でもあり、けれど、普通だったら日本でも自分の住む場所のある程度狭い環境に比べたら、とても広い、壮大な環境でもあった。
親もいない環境で自分でなんでも決めなければならなかったし、自分で動かなければならなかった。そこは自分で自律的になんでもしなければいけない環境だった。良い意味でも悪い意味でもなんでも自分で動いて自分でしなければならない、そんな環境だった。
そんな環境のお陰で自分から動く、ということを学習した気がする。この学校ではフランス語とかフランス文化ということではなく、本当に別の意味での生きる糧、生きる為の能力、自立する力、どんな環境でも生活できる対応力などの能力を向上させることができた、とても貴重な環境だったと思う。
私が得たものはその後の私の海外生活で生きていくための術、能力をここで全て培ったように思う。
これから…
そして、そんな私は現在でもフランス、アルザスに住んでいる。が、何年住んでも、そしてここにそれからも住もうと思って住んではいるが、それは実際はそんな簡単なことではない。
今となれば、もちろん私にとってアルザスは第二の故郷でもあり、ここにいることで「家(HOME)」を感じるが、それでもここでの生活が決して楽ではないこともある。
残念ながら、この学校は19年という年月の後に門は閉鎖された。そして、又別の組織が入っていた。それでも、この場所にはまだSEIJOの文字が残っている場所もあるし、アルザスの人たちの記憶には残っていてくれている。
しかし、その反面日本ではそんな学校の存在などすっかり忘れられてしまったようにも思う。
そこで、私はここの学校の前にあるぶどう畑を所有するワイナリーさんとこの学校の校章と名前の入ったワインを生産するというプロジェクトを企画した。3年間ではあるけれど、この校章と名称の入ったワインが生産された。その後日本にある成城学園本校の意向で、一旦(もしくはずっと)停止されてしまった。私はこの先ずっと私の母校があったことを忘れないでもらえるように、ずっとこの成城ワインを生産していきたいと思っていた。
その思いを込めて、もし私がこうしてSNSで自分の体験や自分の母校のことを語り続くことができるなら、少しでもアルザスにあった日系全寮制学校のこと、そしてその後もこうしてアルザスに滞在している、少し変わった私の海外ノマド人生…それが誰かの興味になったり、「面白い」と思ってもらえたらと思っている。
そんな私自身の人生を大きく変えることになったアルザスでの経験やその経緯を少しずつ書いていきたいと思っている。
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