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⑧12歳で単身アルザスの小さな村にあった全寮制日本人学校へ -フランスにある日系全寮制学校の不便さと生き辛さーぶどう畑の真ん中で

⑧フランスにある日系全寮制学校の不便さ生き辛さ

私は12歳の時に、単身で留学のためにフランス、アルザスの地にやって来た。そこにあった日系の全寮制学校、アルザス成城学園に来た。

https://note.com/coquelicots/n/na34f0b5ee4cf


フランス、アルザスのぶどう畑の真ん中に立つその日系の学校は、一体どんな所だったのだろうか。

どんな生活をしていたのだろうか…


学校の特徴


アルザス成城学園の最大の特色は、フランスのぶどう畑の真ん中にある、日系の全寮制の学校であるということだ。

日本から来た12歳の日本人の女の子が、親元離れて全寮制の学校に行くこともあまりないような気がする。そして、そんな日系全寮制学校がフランスの田舎の村の、周りにはぶどう畑しかない場所に存在していたのだ。私にとって、そこはフランスにあるのに、小さな日本だった。

そしてそれだけではなく、私が入学したその年はその学校の開校だったということだ。なんでもそうだが、何かアイデアを出すこともすごいことだし、それを現実化することもすごいことだ。そして、それを始めた時にそこから進化させていく、継続させていくこともとても大切なことだ。
開校当時、まだ未完成な部分も多かったこの学校は、生徒も一緒になって色々作っていくような、そんな学校だった。

学校の開校時を体験できることなんてめったにないし、それもフランスの小さな村にある日系全寮制というかなり特殊な環境だった。だから開校してから最初の数年は、試行錯誤しながら色んなことが変化していった時でもあったと思う。

そして、そんな学校の開校1年目、学校は元修道院だった本棟の中に教室も、寮も、食堂も、講堂も全てが1つの建物の中にあるという、それもとても珍しい構造の空間だったと思う。


寮と寮の仲間

学校もそうだが、私たち生徒にとって大切だったことはじぶんの宿となる寮だ。
寮は本棟2階に男子、女子がABC3棟に分かれ原則は中学1年生から高校2年生までが縦割りで同室となり、1年間ずっと同室というシステムだった。最初の年は今考えてもどうやって部屋割りを決めたのだろうと、今でも少し不思議だ。

開校当時、誰のことも知らず、何も分からぬまま私は中学2年、3年、高校1年の生徒と同室になった。
今でも覚えているが、中学2年生の子はオランダ、アムステルダムから、お父様が航空会社で働く駐在の家族、そして、中学3年生の女の子はドイツから来て、お父様が学校の先生をしていると言っていた。高校1年生の女の子は日本から来ていた。
日本だったら、先輩、後輩があって、敬語を使ったり、先輩を「xx先輩、」「xxさん」なんて呼ぶのが当たり前なのだが、この寮生活の良いところは、誰が決めたのか、あまり敬語で話すことはなく、先輩に対しても「xxちゃん」と呼ぶことができた。

私は相手によるのだが、小学校の頃に3文字の名前を2文字であだ名のように呼ばれていたので、同じように呼ばれたり、それに「ちゃん」を付けて呼ばれたりしていた。

海外組も多かったこともあってか、先輩後輩の上下関係がそこまでなく、こうして友達言葉で仲良くできたことも、この学校の良いところだったかもしれない。
ただこの上下関係は男子の方は多少厳しく、特にクラスによって、それが厳しい学年とそうでない学年があって、その後、それが様々な問題を引き起こしたりもした。

そういう意味では、女子の緩い上下関係は本当に良い人間関係を作れる環境だったと思う。けれど、その関係は寮の中止まりで、例えば勉強を教えてもらったり、何かを教えてもらったり、というような「師弟関係」のようなものはあまり生まれていなかったようにも思う。

私の部屋は、運よく皆良い人達だったし、同じようなタイプの人達が集まっていたので、過ごしやすかった。

どうやって部屋割りを決めたのか分からないのだけれど、恐らく今考えてみると、皆同じアルファベットから始まる苗字だったので、出席番号順かなにかだったのではないかと思う。

そしてやはり1年目でも辞めてしまう生徒もいたり、部屋内での問題などもあったためか、その後たまに例外での部屋替えなどがあった。私の部屋は1年間でそこまで大きな問題などはなかったように思う。

寮監や寮に滞在する先生はいたものの、基本的に寮は正に生徒だけの世界だった。そこでの規則ができ、子供だけの世界の中で、おかしな規則や決まり事のようなものもあって、年代的に丁度性格形成される私にとっては、決して大人のいないこの環境が最適だったとは言えないと今思うことがある。
それでも、この年齢で親元離れて、寮生活を送ったことで、自立心や、自ら行動する力など、他では培えなかった力や能力を養えた。

2年目からは、くじ引きのような形で部屋決めが行われた。けれどこれは今考えると純粋なくじ引きではなく、色々大人の事情が関係し、からくりがあったように思う。
もしも本来の形のくじ引きであったのなら、その場で公にくじを見せて部屋が決まるはずなのに、
「寮長と少し相談します。」
なんて言われて後から部屋割りが発表された。

だからそれは純粋な運ではなく、先生や生徒の代表であった寮長が裏で細工しており、ある程度はくじ引きという運もあったのかもしれないが、くじ引きという名の裏工作がされた部屋決めだった。でも、そうでもしないと、寮生活をしていくにあたって、なかなか上手くいくことはないと思うのだ。

生徒の中には、大人しい子もいれば、問題児もいた。特に問題児と言われるような子は、後輩を使ったりするので、部屋割りを見て泣き出す子もいたりした。実は寮生活は、クラスよりも精神的に辛いこともある。
日本でも学校のイジメ問題などがあるが、それでも家という逃げ場がある。

全寮制の場合はその逃げ場がなくなる。そして、クラスなら先生もいるが、授業が終わった後では、寮の中は生徒だけの空間になる。同じ部屋でイジメまで行かなくても、怖い先輩と同じ部屋になって、色々指示されることがどれだけ辛いことか・・・大人はきっとそこまで想定していただろうか…。

教室も 同じ建物の2階と3階にあったのだが、建物の中では日本の学校のように授業が始まる前と終わりに鐘が鳴り、鐘が鳴ってから部屋を出ても教室に間に合うくらいの場所だった。
アルザスの冬は北海道くらい寒いのだが、外に出ないで学校に行ける、私が今でも通学、通勤というのが嫌いな理由はこの学校のこういう便利さのせいかもしれない。
本来なら、満員電車に乗ったりという通学の問題というのがあるが、この学校に来てからは建物から出ることもなく数秒で教室に行くことができた。最悪、鐘が鳴って、慌ててそのまま起きて、学校(教室)に行くことも可能だった。環境的に言えば、寮と教室は別の部屋にあるが、学校そのものの中に住んでいるような、かんじだった。そんなこともあってか、この学校の規則の一つに

【学校内での服装は寝巻と運動着は禁止】

というものがあった。これはきっと、起きてそのまま学校(教室)に来る事を避けるためだったのだろう。しかしながら、それ以外の校則は意外と緩く、制服もなかったし、それ以外の服装規定もなかった。だから、ある意味とても自由な学校で、髪の毛の色も、ピアスも、中学生の時から禁止ではなかった。そういうところも日本とは全く違った環境だったと思う。

なんでも足りない不便な寮生活

開校1年目、寮生活では、本館の建物の中で、男子は二階、女子は三階に居室があった。開講1年目は居住空間が狭いこと、トイレやシャワーの設備が少ないことが大きな悩みだった。まずベッド数に対して居室が狭いこと、机なども部屋になく、勉強する環境すら最初整っていなかった。
部屋は通常4人部屋だった。その部屋には、2段ベッドが2つあり、その間に人がやっと一人座れるくらいの隙間があり、ロッカーが一人一つ、部屋には洗面台が一つ付いていた。基本的にロッカーは鍵が付いていて、他の人が開けられないようになっていた。

そして部屋では毎週掃除が各部屋の住人によって課されていた。だから、週に一回は先生の掃除チェックもあった。

トイレ、シャワー室に関しては、女子寮は3つの棟に分かれていたが、その全ての棟にたった一つのシャワー室しかなかった。トイレは3つ。最悪トイレだけは教室近くなど他のところにも行くことが可能だったが、シャワーだけはかなり大きな問題だった。

シャワー室には簡易シャワーみたいなものが2、3つあるだけで、それを1棟40人以上いる女子が時間内に入らなければならなかった。だからほぼ必ず誰かと一緒に入るようにはするが、限られた時間で皆が入ることも難しかった。この寮生活のお陰で私は日常的に行う全てのこと、トイレ、シャワー、食事などの時間がかなり短くなり、それは今でも変わらず、朝の準備などびっくりするくらい早い。

自分のスペースはベッドの上だけだった。けれどこのベッドにもカーテンなどもなく、一人きりになれるようなスペースは部屋の中にはなかった。と言うことは、本当に全く1人のプライバシーが守られるような場所はなかったのだ。もちろん、寮には女子しかいないが、着替える時も、何をするにも、もし部屋に誰かいれば、1人で何かをすることができない状態だった。

そして…この寮の部屋には机も椅子もなかったので、開校当時、寮の部屋は正に寝るための場所、着替えなどを身支度をするだけの場所だった。一人で泣きたい時、一人で何かしたい時、ひと時一人でいられる時間があったとして、そういう時は部屋にいると誰かが部屋に入って来てしまうので、プライベートの空間は全くなかった。

実は、フランスの村にある日系全寮制学校で、辛かったことの1つと言えば、親元から遠く離れて、寂しかったとか、文化の違いとか、言葉とか、食生活とかよりも、全く自分の、一人のスペースがなかったこと、かもしれない。もちろん、1人になりたい時は1人になれるような場所を校内で探さなければならなかった。

日々の生活 寮と学校


さて、私達の毎日の生活はというと、
毎朝6時半起床
●7時朝食
●8時から3時まで1時間の昼食をはさんで授業
●授業の後、3時~6時まで自由時間、この時間外出可能
●6時門限、点呼
●6時~夕食
●7時20分 居室に戻って清掃
●7時30分~順次入浴など、
●その後自習時間
●10時半 就寝

という毎日だった。

規則としてご飯は必ず食べないといけなかったが、偶に寝坊などしたりすると、このご飯の時間を逃してしまうともう食事が食べられないということになる。
規則で必ずご飯を食べないといけないと言っても、それをちゃん管理してくれる先生がいたわけでもなかった。
成城学園というのは、個性尊重で自由な校風なのだが、こう言う全寮制の学校で、食事をかならず食べなければならないという規則であるなら、やっぱりそういう事をちゃんと管理する先生も必要だったんじゃないかとと思う。

食事の時間は決まっているし、寝坊などして、もしくはちょっと体調を崩して食事ができない時などは大変だった。部屋にはもちろん冷蔵庫も何もないし、近くにコンビニがあるような生活でもないため、なかなか簡単に何か食糧を買っておく事もできない状況だった。
お菓子などを買って置いておくことはできたけれど、それでもたくさん買って保存しておくこともできないので、大変だった。
そして、これは私だけの、問題だと思うのだが、私はお菓子があまり好きではなく、お菓子を食べる習慣があまりなかった。恐らくこれはかなり珍しいタイプだろう。(そして、このせいで、大人になってからも食料がなくなった時などに色々困ることが偶に起こっていた)

しばらくして、状況が分かってきた家族たちが、自分の子供のためにカップラーメンなど食料を送ることもあった。私の母親も一度カップラーメンを日本から送ってくれたのだが、実は私はお菓子もあまり食べない子だったが、インスタントラーメンなどもおやつやご飯の代わりに食べない子だった。だから、いくらカップラーメンを送ってもらっても、なかなかそれが減ることはなかったし、食べたいとも思わなかったことも覚えている。
今では海外のスーパーでもインスタントラーメンなども売っているが、あの頃は本当に日本食を食べるのも大変で、それだけではなく、食堂でのご飯の時間を逃してしまうと、食べるものがない、なんてこともあった。

授業の後3時から6時までは自由時間で、この時間に日本の学校のようにクラブ活動などがあった。こういう所はとても日本らしかった。生徒たちはこの時間にスポーツをやったり、居室でギターを弾いたり、図書館で本を読んだり、談話室でビデオを観たり、村の雑貨店に買い物にでかけたり、と思い思いに過ごしていた。
それでも3時間しかない自由時間では行けるところも決まっていたし、6時が門限で、学校の門が閉まり、その後、部屋で点呼があるので、門限は絶対に守らなければならなかった。外出も近所の村に行く時はそのまま出かけることができたが、それ以上遠くの、バスで行かなければ行けないような場所に行く時は必ず外出届を出さなければならず、また時間の関係で土曜など午後に時間がある時だけ、行くことができた。

小学校を卒業したばかりの中学1年生、12歳の私には6時の門限でもあまり問題が無かったのだが、高校生にとって6時の門限なんて早すぎて退屈だったんじゃないだろうかと思う。
学校の毎日は結構スケジュールがぎっしりで、あまり自由な時間もないような、でもこんな田舎の村で、ある意味閉鎖された空間で、やることも少なく、暇をもてあます時間もあった。私もクラブに入ったりもしたが、実はあまり運動も得意ではなったので、最初ソフトボール部に入部したが、1年くらいで辞めてしまった。
クラブも、その時の在校生が興味のあるクラブが設立され、そしてそのクラブに興味がある在校生がいなくなるとそのクラブが消え、又新しいクラブができたりもした。兎に角、通常の学校よりも人数が少ないこともあって、クラブを掛け持ちする生徒もいたし、クラブ数も通常の学校よりも少なかった。それでも、あまりやることがない学校だったので、クラブに入っている生徒も多かった。
私はそのほかに、意外と図書館にいることも多かった。この学校でもう一つ自分が得たことは、この時間に読書をして、様々な知識を得たことかもしれない。普通なら、家に帰ってテレビを観たり、ゲームをしたり、なんてこともできたが、この環境にはそういう家庭でできる多くのことができなかった。また、開校当時には、携帯電話も、インターネットも、スマートフォンもない時代だ。ちょっと時間があるからと動画を観たり、SNSを観ると言うこともできない時代だ。幼い10代の生徒にとって退屈する環境でもあったと思うが、教育という面では、ある意味本当に良い環境だったのかもしれない。

点呼の後6時から夕食、7時20分に居室に戻って清掃、7時30分から順次入浴などをして、その後は自習時間だった。先生にとっては、7時30分から入浴で時間が足りると想定していたのかもしれないが、開校当時はお風呂やシャワーの数も少なく、中には部活などがなければ学校が終わった自由時間にお風呂に入ってしまう生徒もいたし、早くご飯を食べてシャワーをに入る生徒もいた。開校当初、女子寮がABC棟に分かれていたが、その各棟に1部屋しかシャワーがなかったのだ。
1部屋にはシャワーが2~3つあったが、必ず3人で入るわけではないので、1人がシャワー室に鍵をかけて一人でゆっくり30分も入ってしまえば、それこそ夜の自由時間に皆がシャワーに入ることができなくなってしまう。シャワー一つ入るのにも、意外と大変だったのだ。

そして、10時半に就寝というスケジュールで、毎日が過ぎていった。スケジュールを立てたのはこの学校が出来上がる前の先生方であるが、実際に住んでみて分かること、住んだから気が付くことは多く、毎日勉強する時間として自習時間が設けられていたが、この自習時間も最初は大問題だった。


自習時間はあるのに、勉強する場所さえもなかった寮生活

学校としては、生徒に毎日勉強させるのは当たり前のことだと思うが、部屋には机を置くスペースもなく、自習しろと言われても、開校当時は自習する場所すらなかった。当初、
「図書館に行きなさい。」
と言われたが、130人以上の学生が座れる場所は図書館になかったし、結局最初のうちは机とイスがある場所、として教室に戻って勉強することになった。
とは言え、毎晩、教室に皆が戻って勉強しようとしても、それはただの教室に集まる生徒たちがワイワイ騒ぐだけで、真面目に勉強ができる環境ではなかった。
確かに、なんだかんだ言っても、本当に毎日勉強するというのは難しい。どの生徒もだが、学校では日本と同じように1学期に中間試験、期末試験があって、その1週間前からまじめに必死で勉強する、という感じだった。

中学1年生になって、すぐの頃、そんな環境の中、それでも私は最初のうち、どうしても早くフランス語でコミニケーションが取れるようになりたくて、フランス語の先生を捕まえては教室でフランス語を教えてもらっていた。私はせっかくフランスにいるので、フランス語で外の人とちゃんとコミニケーションが取りたいと思っていた。
せっかくフランスにある学校だったが、意外とフランス語学習をするのに最適な場所ではなかったかも、しれない。また、皆様々なバックグランドを持ち、この学校に留学に来た理由も異なっていた。だから、決してフランス語を勉強したい、フランス文化(アルザス文化)を学びたいと思っていた生徒ばかりではなかったと思う。

今考えると、授業が終わって、本来先生のプライベートな時間だったかもしれないのに、フランス語の先生もよく、夜までもフランス語を教えてくれていた。今考えると、夜の自分の自由な時間まで奪われてかなり迷惑だったんじゃないかと思う。

その後、寮の形態も多少変わり、空き部屋に机を椅子を入れて自習室にし、そこで勉強できるようになった。けれど、そこもみんなで机を合わして勉強していたので、真剣に勉強するには最適な環境ではなかった。結局、自習時間は自分の部屋にいることは禁止され、その自習室か、図書館にいなければならなかった。けれど、だからと言って毎日ちゃんと勉強していた記憶はない。試験1週間前にとにかく一生懸命勉強して、試験に挑んでいた。

開校時、夜も教室も戻ってワイワイしていたこの学校は、最初はここでの生活は修学旅行の延長みたいな感じなところもあった。けれどオトナがずっと一緒にいる生活ではないこともあり、この学校ではどんどん生徒だけのコドモの規則が出来上がり、とても不思議な空間でもあった。

美味しいけれど慣れない食生活

食事に関しては、実は一番ショックだったのは朝ご飯だった。これこそとても「フランスらしい」朝食だったのだが、中学生の私はまだヨーロッパ文化も知らず、あまりにもシンプルでとても驚いた。
開校当時、最初はパンとバター、それとジャムが2種しかなかった。これに温かい牛乳とお湯、カフェと紅茶とホットチョコレートという所謂コンチネンタルブレックファーストだった。最初の数日は良かったのだが、これが毎日続くというのはかなり辛かった。パンとバターとジャムだけでは飽きてしまう。
そこで、生徒は少しずつ色々工夫することを覚え、バターにホットチョコレートの粉を混ぜてチョコレートスプレッドのようなものを作ってみたり、高校生は外で本当のチョコレートスプレッド、ヌテラなども買ってきたりもしていた。
日曜には菓子パンが出るので、少し変化があり、皆喜んでいた。また、徐々にバターだけではなく、クリームチーズや、偶にハムなども出るようになったが、それでも私がいた3年間はかなり簡素な朝ご飯が続いた。その後の朝ごはんに関しては分からないのだが、クリームチーズが出るようになり、毎日の朝ごはんはフランス風の白いボールに入ったホットチョコレートと、フランスパン、そしてクリームチーズだった。
日本から初めて海外に来た私にとってはこの朝ごはん用の白いボールも衝撃的だったのを覚えている。マグカップではなく、ボールで紅茶やホットチョコレートを飲むというのも、フランスでは当たり前のことがとてもびっくりした。
こういう些細なところではカルチャーショックというか、文化の違いを感じたりもしていたが、そういう環境にも結構すぐに慣れた気がする。

昼食と夕食は基本的にフランス料理だった。とは言え、それはフランスの家庭料理、もしくはアルザス料理ではなく、フランスの学食の料理だった。フランスっぽいものもあれば簡単なローストチキンとかローストポークみたいなものもあったし、それにぐちゃぐちゃに煮た野菜が付いていた。
基本的には不味くなかったけれど、ものすごく美味しいもの、でもなかった。その後も学食で食事をした経験があるが、本当にそこのご飯はフランスの学食のご飯、という感じだった。

アルザスに住んでいたが、今思い出してみても、この学校の滞在期間にアルザス料理を食べた記憶が全くなく、アルザス料理すらなんだか知らなかったと思う。シュークルトも、タルトフランベも、大人になって改めてアルザスに戻って来た時に初めて食べた記憶がある。

この時感じたもう1つのカルチャーショックは、野菜の一つのような感じで、ご飯が皿に盛られて出てきて、それでも必ず主食としてパンが付いてくることだった。これには小さいながらにちょと驚いた。日本人の私とってはご飯もパンも主食なのに、両方一緒に出てくる。フランスではフランスパンは必ず付いてくるものなんだと知った。

フランスの学食と言う感じで、まずプレートを取り、そこにフォークやナイフなどを取って、前菜になるサラダを1つ取る。そしてメインは毎回1種類のみだったので、それをもらい、最後にパンを取る。学食はフランスの企業が入っており、皆フランス人の人だったので、言葉が通じなかった。ここでもっと頑張ってフランス語を覚えて食堂の方々と話をしよう、という気持ちにまではまだなれなかった。
けれど、小さくて小食だった私が最初の方に覚えた言葉は
「少なくしてください (un petit peu s'il vous plait)」だった。そのせいで、私はここの学食の皆さんにすぐ覚えてもらえ「un petit peu」と呼ばれていた。

基本的には食堂でご飯を食べなければならず、食堂でのご飯を外に持ち出すことは禁止だった。それでも、朝ごはんも寝坊して行けない子のためにパンとバターを持って帰ったり、夜に出されるパックされたチーズなどは部屋に持って帰って、小腹が空いた夜などに食べたりもした。
ただし、部屋に冷蔵庫などがあったわけではないので、季節によってはたまにそのチーズがポケットの中で溶けてしまったりもした。パンも持って帰ったりもしたが、次の日にはすぐパサパサになってしまった。

日本食に関しては家庭科の先生でもあったフランス在住の長い日本人の先生が食事や掃除、洗濯をしてくれていたフランス企業、ソデクソとの連絡役としてすべてのメニューを指導してくれていた。
そのため、しばらくしてから、時には日本食のカレーライスやカツ丼なども提供されるようになった。日本食が食べられるので生徒の多くは喜んでいたが、実はフランス人の作るちょっとインチキ日本食は私個人の口にはあまり合わなかった。
日本にいた時から、簡単な家庭料理はよく食べるが、逆に白いご飯以外のご飯ものが苦手だった私には、カレーライスやカツ丼的な丼ものなどが苦手でだった。そして、ご飯自体が日本米と異なるため、私の口には合わず、逆にシンプルなフランス料理として出されていたローストチキンとサラダとか、ポークソテーと野菜の煮たものなど方が好きだった。
また、小さい頃からチーズも好きだったので、食事そのものが美味しくないと思った時には、フランスパンとチーズを食べていた。あまりクセのあるチーズは食堂では出てこなかったが、あの頃はここだけはフランスで、種類は色々なチーズが出てきて、幼いながらにフランスのチーズだけは堪能したかもしれない。そのせいか今でも「何かあってもパンとチーズさえあれば生きていける。」という感覚が身に付いてしまった。

そんなソデクソの日本食も、年数が経つにつれ、かなり本格的な日本料理も週に何回かは出されるようになってきたようで、卒業生の中にはソデクソの食事を懐かしむものも多い…なんて聞いたこともある。けれど、これは先生の言う「美談」であって、確かに毎日食べていたあの食堂の食事を懐かしく思う時もあるし、そんな時に
「懐かしいなあ。」なんて言葉も出てくると思うが、もしも機会があれば又1回、2回食べて懐かしみたいかな、というくらいのことだと思う。

先生も海外、留学、寮生活の素人集団

寮に関しては最初の年度は、寮監の先生が中心となって、寮の中に部屋を持つ先生、養護の先生、若い助手教員、宿直の先生が夜の寮の運営に当たっていた。
恐らく寮に居た先生は予想外に自分の時間も、自由もプライベートもなく大変だったんじゃないかと思う。今になって思うが、私はこの全寮制学校での生活の後も多くの場所で寮生活をしてきた。それが辛いと思わないでいられたのはきっとこの最初の寮生活のお陰だと思う。
寮生活というのはかなり特殊なので、知らないでこういった仕事についてしまうときっとかなりストレスになるんじゃないだろうかと予想する。

オトナになって考えれば、「フランスで働ける」と思い、その場所に行けば食事も部屋(寮)も付いている、となればとても行きやすい場所に感じるだろう。けれど、そこはフランスでも一歩外を出ても何もなく、寮に住む先生たちもそう簡単に外に出て遊びに行ったり、飲みに行ったりできるような場所ではなかった。
それこそ、フランスなので、フランス語が分からなければさらに外での生活は簡単にできないし、パリなどと違ってその頃なら日本人コミュニテイもあまりなかったのではないかと思う。

そんな寮で生活する先生たちは、生徒たちからの勉強の質問、個人的な相談、電話の取次ぎなど席を温める暇もなく忙しかったようだ。消灯時間が過ぎても、あっちの部屋から電気がもれ、こっちの部屋から話声が聞こえると言う調子で、1年中修学旅行の付き添いのような勤務だっただろう。もちろん、先生たちは一人部屋で、門限はなく、ある程度の自由はあったと思うが、そんな環境の先生方も大変だったがこの環境で生きる私達はかなり大変だった。兎に角プライベートの空間が全くないのだ。

2年目になってやっと…

寮と教室が同じ空間にあり、1部屋も小さかったことは確かに大きな問題だった。先生の部屋も、生徒の部屋と同じ棟にあり、先生もプライベートがない空間だったと思う。
そこで、しばらくして、木造二階建ての別棟を男子寮として独立させるべく改修工事を進め、75人文の生徒用居室、他に小体育館、自習室、2つの教員用居室が完成し、1987年度から男女別棟になった。そして女子寮、男子寮とで責任者が置かれた。
どうして最初に気が付かないんだろうと思うのだが、この場所はある意味ずっと修学旅行のような場所だ。いくら門限があっても、消灯があっても、そして男女の部屋の行き来禁止と言われても、同じ建物に住む10代の男女なら、その部屋を行き来するのは当たり前のことだと思う。中学生だった私には無縁だったのだが、高校生ともなれば、夜中に部屋を抜け出して誰かの部屋に行くだろう。
私も仲の良かった女の子の部屋に偶に行って、こっそり隠れて一緒に夜中まで話をした、なんてことは数回あった。また、高校生になると夜中にこっそり抜け出しす人たちもいた。


開校だからこその面白さとお風呂


何でも最初というのは分からないことだらけだ。開校最初の1年目は本当にこの学校の規律というか秩序は結構なんでもアリだったようにも思う。だからこそ楽しいことも多かっただろうし、大変なことも多かった。何かをしてみて、それがいけないことだとなり、そして新たな規則ができる。子供はオトナの想像以上のことをしてしまうのだ。また、オトナの思う「良いこと」と子供の思う「良いこと」オトナが欲しいと思うものと子供が欲しいと思うものも違うのだ。

例えば、開校から2年後には日本のある企業からの寄付で日本式の大風呂男子寮の一部分に完成した。これは曜日を変えて男女が交代で利用することになった。日本人として、お風呂に入れないということは大きな問題だ…。と考えたのだろう。けれどそう考えるのはきっとオトナだけであって、私みたいな小さい子は、お風呂がないことにあまり不便を感じていなかった。シャワー室にも一応湯舟があったので、お風呂に浸かるということは不可能なことではなかった。

オトナになった今、海外在住中にお風呂に入れる機会は少ないのだけれど、確かに「お風呂にゆっくり浸かりたいな」と思うこと多い。オトナになってから、温泉も好きで、大きなお風呂も好きなので確かに自分の寮にお風呂があったらきっと嬉しいだろうと思う。

もちろん、1棟に立った1つしかないお風呂で、その中には湯舟は1つしかなかったので、のんびりお風呂に入れるということはあまりなかったのだが、それでも、絶対無理ということではなかった。
よくある中高生の女子のように、ダイエットとして湯船に浸かって汗をかく、なんてことを何度か試したことがあるのを覚えている。それくらいで湯船につかりたいと思ったりはしたが、シャワーだけの生活がそこまで不便だとは個人的にはその頃感じなかった。

1年目に寮に住んでいた年配の先生は、生徒と同じ寮に住んでおり、シャワーしかなく、「お風呂に入りたいな」といつも思っていたそうだ。寮監だった先生はお風呂付の大きな部屋に住んでいたそうで、その年配の先生は最後の最後にそれを知り、「お風呂にさえ入れてもらえたら」と思ったと、後になって私に言っていた。

誰かにとって生活の中で本当に大事なこと、自分にとって生活の中で本当に大事なことは違うのだ。海外にある全寮制の学校ではそういう各個人の生活習慣の違いもあったのだ。

12歳が見たアルザスにある日系全寮制学校とは


12歳という幼い年齢で日本を離れたメリットはこうした「日本らしい生活」そのものにそこまで拘ることなく、新しくこのフランスにある全寮制の学校の生活を受け入れることができたことだと思う。
まだ性格形成も確立しておらず、色んな意味で成長している中だったからこそ、新しい環境にも対応でき、スポンジのように様々なことを吸収することができたと思う。
今までの自分の生活と異なる生活の中で「どうして?」と思うことなく、今までと違うこともすんなり受け入れられたのだと思う。特に小学生なんてまだまだ世界が狭いし、親と出かけることの方が多いような時期だ。中学になって急に一人になり、自立しなければいけない環境で、海外だから、フランスだから、ということで学ぶことよりも、自立するために成長しなければいけなかった気がする。

だから、周りが想像するように、海外でも絶対お米を食べたいとか、日本食が食べたいとか、お風呂につかりたいというような典型的な日本の生活への要望は少なかった。
けれどその代わりに普通の日本の女子中学生であったので、日本の雑誌が読みたいと思ったり、日本のテレビが見たいと思ったり、好きなアイドルがいたり、少しずつおしゃれに興味を持ったり、することはあった。そしてそういうことが逆に遠くて、手に届かなくて、とてももどかしい思いをすることはあった。

そんなフランスの中の小さな日本で生活していたのだ。ただそれは異文化であるからというよりは色々設備のことなど基本的なところでの不便から始まり、生活していく中で様々な問題に気が付き、そこからそれを解決していく、生徒が先生の予想外のことをすればそこで新たに新しい規則ができていく、というような生徒も一緒に作っていくような学校だった。

ある意味そんな「1から作り上げていく学校」にいられたことで培った、「何にもないところから何かを構築していくこと」を学べた。
幼いながらも、いや幼いからこそ得た自立心や、何もないところでの素朴な生活、そしてそこから得る楽しみ、そう言うことも学べた気がする。 
そして、そこで学んだことは異文化理解や語学ではなく

●新しいことに柔軟に対応できること
●いつでもどこでも寝られること
●シャワーやトイレ、食事など基本的なことを必要であれば早く済ますことができること
●外国の人、日本の人という概念なく、誰とでも物怖じしないで話ができること
●何もないところから自分がやりたいことをする力
●何もないところから自分の欲しいものをなんとか手に入れる、作りあげようとする力

など、その後の私の海外生活、海外留学に役に立つ生きる為の能力をたくさん養うことができたと思う。
ここでの生活では語学や異文化理解、という点では十分ではなかったかもしれないが、私にとってはここでの生活が私の性格形成、人格形成、そして海外暮らしに役立つ多くの力を身に着けることができた、貴重な場所だったと思う。

ただ、ここにいた全員が私のようになっているわけではないが、それでもその中の数人は今も海外在住だったり、海外で何かしら活躍している人も他にも存在している。また、海外に行ったから何かが変わるわけではなく、そこに本人の能力、努力、動機、やる気など多くの他の要素が重なりあって、最終的にオトナになった時に私のように海外で暮らしたり、国際的な仕事をしたり、もしくは日本に戻って日本での生活に戻る生徒もたくさんいた。

アルザスでの暮らしは私の今の人生の原点である。けれど皆が皆私のような人生を歩んでいるわけではなく、私はどちらかというとその中でも変わった人種になると思う。

結局は個人次第…海外で暮らしても、どう暮らしたのか、それと本人の意志でその後の人生も大きく変わっていく…んだと思うのだ。



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