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⑤ぶどう畑の真ん中でー12歳で単身アルザスの小さな村にあった全寮制日本人学校へ-開校への準備と入学志願

私は11歳で決断し、12歳でフランス、アルザスに単身でやって来て、ぶどう畑の真ん中にあった、日系全寮制学校に留学した。

その経緯はこちら

開校までの経緯

私の人生は
「12歳で単身、フランス、アルザスへ留学」というだけで、もう普通とはちょっと違う人生を歩いてきている。いつも周囲に「どうして?」と聞かれたら、「私の通っていた私立のエスカレーター式の学校で、中高一貫教育の全寮制学校をフランス、アルザスに設立し、中学に行くときに 『東京校とアルザス校どちらが良いか?』と学校で聞かれたので、アルザス校を選んだ。」と言っている。
けれど、これはかなり簡潔にした話であって、本当はもっと複雑で、そんな簡単な一瞬の「思い付き」で決められたことではなかった。
ということででは、私がこの学校が開校するまで、とそこに行くまでの経緯はと言うと…

開校への準備と入学志願ーどうしてアルザス?

④ ぶどう畑の真ん中でー12歳で単身アルザスの小さな村にあった全寮制日本人学校へ

にもこの学校の設立について書いたが、日経新聞に掲載された記事がきっかけで、アルザス成城学園は設立された。
そんなたった一つの記事で設立が決まったもののと、もちろん、設立までにはやることは山ほどあった。

実は1980年代~こういった日本の学校の海外分校は数多く存在した。そんな中で、このアルザス成城学園は海外に設立された中高一貫の私立学校としてはロンドンにある英国立教学院に次いで2校目だった。
2024年現在でも、
私立在外教育施設では早稲田渋谷シンガポール校、慶應義塾ニューヨーク学院、立教英国学院、帝京ロンドン学園、スイス公文学園高等部、如水館バンコクの計7校存在し、閉校になった学校も合わせたら、+12校ほど、合計20校ほどの学校が海外に存在していた。そんな中での2校目の私立在外教育施設だった。

英語圏ならまだしも、ロンドンという(実際は郊外だが)都心ならある程度便利でもあるが、この海外日系私立学校は本当にぶどう畑の真ん中に位置していた。そんなアルザスの学校に留学した私は、元々フランスに行きたいと思っていわわけでもないし、海外志向があったとかでもなかった。アルザスがどこにあったかも分からなかったし、それこそ、英語圏ではないので、言葉の壁もあった。

私は、元々私立のエスカレーター式の学校に通っていて、その学校がフランスのアルザスと言うところに分校を設立していまったので、私にとっては転勤になるのと同じような感覚で、自分の学校の分校に進学しようと思っただけだった。だから、幼い私は元々海外に留学したかった、とかでもなく、たまたま自分の学校がフランスのアルザスに分校を設立したので、アルザスに行くことにした、という、なんとも単純なことだった。だからある意味国を選んで留学したわけではなかった。

それは今も変わらず、行きたい国とか住みたい国があるというわけではなく、先に目的があって、その目的のために他の国に住んだり、国を移動したりしている。それは12歳の頃から変わらないスタンスで生活している。

日経新聞の記事から決定した分校の設立まで…

そのアルザスの校舎改築はその夏から大規模な工事が進められた。夏休みになると校長などを含めた何人かのスタッフがアルザスを訪れ、アルザス地方のオー・ラン県の開発委員長クライン氏を中心とするフランス人側スタッフと学校設立にあたっての諸問題を協議した。
この学校は日本人学校なので、日本の文部省(現在の文科省)の認定を受けなければならず、東京の成城学園では文部省との接触やアルザス校でのカリキュラム教職員の人事など翌年4月に向けての動きが始められた。

フランスにある全寮制日本人学校は、海外に駐在する日本人家族の子息のためであったので、最終的に日本に帰国して、進学を考える生徒たちの学校だった。だから、せっかく海外に滞在しているものの、そこでの教育は(ほぼ)完全に日本の学校と変わらなかったのだ。ただ、この頃にはまだあまりなかった中高一貫教育という学校で、日本の名称はアルザス成城学園 (Lycée Seijo d’Alsace)はフランス語ではアルザス成城高校と訳されていた。

そんなフランスにある日本の学校設立が決まってから、2年で開校という目まぐるしい時間だったと思うが、1985年11月17日アルザス校事務局の一行は現地での開設準備のためコルマールに入った。アルザスの小さな村、キーンツハイム内、と言ってもその小さな村のはずれにあった校舎内は、外見は元修道院で、ヨーロッパらしく、綺麗に見えたが、当初中は荒れており、そこから工事も順調に進み、荒れた室内がきれいに変貌していった。その後の開校での綺麗な校舎は、それがどれほど大変で大掛かりな工事であることがうかがわれるものだった。

また、全寮制の学校ということで、校内だけではなく、1つの全寮制の学校設立には実に多くの設備、備品が必要となり、教室・図書館・食堂内の机、椅子、生徒用ベッド、事務機器、電気製品、暖房関係の備品など上げればキリがないほど必要なものがあった。もちろん、日本の学校とは言え、日本と同じものが揃わないこともあったし、その教室はフランスでもなく、日本でもない、一種独特な場所だったように思う。
学校が開校した時には1つの大きな建物の中に教室も、寮も、食堂も、図書室も、講堂も、全てが入っていたのだ。ある意味、そんな学校は珍しいのではないだろうか…。

こんな小さな村に小さな日本が?日本だけど国際的?

フランス、アルザスの小さな村へのアルザス成城学園の進出はアルザスの地方紙だけではなく、リベラシオン、ヘラルドトリビューンなどと言ったメデイアでもかなり大きく報道されるようになり、受験志望者の親子の見学や地元の人たちの参観が多くなった。今となっては海外はとても近く感じるが、80年代にはまだインターネットもなく、海外がまだ遠く感じる時代だった。まだアニメや漫画などJPOPカルチャーも海外人気は今ほどではなく、日本はまだまだ遠い国だった。そして、まだ海外の各国の情報も多くない、そんな時代だったと思う。

そんな中、アルザスという田舎の地方の小さな村に、全寮制日本人学校が設立されるということは、その頃とてつもなく大きなニュースだったのではないだろうか。

アルザス成城学園の生徒募集は東京で進められ、フランス、西ドイツ、などヨーロッパ諸国だけではなく、メキシコ、オーストラリア、ソ連、ナイジェリアなど多くの国から応募があった。生徒は日本人であったけれど、その生徒のバックグランドは本当に様々で、ある意味とても国際的な学校でもあったと思う。最初の生徒募集は海外在住者のみで行われており、この頃は東京校にいた私たちがまだこの学校に入学できるか、東京校とアルザス校どちらかに行けるのか、もしくはもし私がこの学校に行きたいと思った時に、またこのエスカレーター式の東京の大学に戻れるのか、ということも何も分かっていなかった。
それでも、私は、この学校ができますというお知らせをもらった小学校6年生の夏の頃から、ずっと「この学校に行きたい」と親に言っていたのだった。

最初の入試はパリで12月22日、23日行われ、その後パリ以外で日本国内で受験する必要のある生徒に対しても入試は1月末に東京で行われた。その間に東京校からの生徒もこの学校に入学、編入できるということが決まり、また、東京と同じく、入試ではなく面接があった。また、小学生の私たちにはこの学校に2年間在籍すればまた東京校に編入することができるという規定でもあった。ただし、この規定は開校当初の1年目の生徒にのみ、適用されていたようだ。
こうして私は、パリでの入試後、東京校からの入学受け入れの知らせがあり、その時にも家族に「この学校に行きたい。」と言い、私の意志も一瞬の思い付きではないということを理解してもらうことができた。

ただし、私は母子家庭で、経済的には祖父母や叔父叔母夫婦に面倒を見てもらっていたので、まずは母親を説得し、母親と一緒に叔母を説得し、母親と叔母と一緒に祖母を説得し、母親と叔母と祖母と一緒に叔父を説得し、叔父が祖父を説得し、やっと家族全員の承諾を得て、この学校への入学志願をすることができた。そして無事面接をし、その時にこのアルザス校に行くことが決まった。また、私は運が良いことに、この頃経済的援助をしてくれていた叔父がアメリア転勤が決まったこともあり、経済的にさらに余裕ができたことも私がアルザス成城学園に行けた理由の1つでもある。

海外留学などでたまに「親が反対する。」「家族が…」なんて言う人にも出会うことがある。でも、本当に意志が固ければ、何度も、時間をかけてその意志を伝えることができれば、きっと思いは届くと思うのだ。もちろん、それ以外でも「金銭的に…」という問題もあることもあるだろう。小学生の私はもちろん100%家族に頼らなければならないし、私は母子家庭で、公務員だった祖父と会社員だった叔父に面倒見てもらっていたが、そういう意味では叔父の海外転勤と重なったという運の良さもあったと思う。

人生は色んな事が起こるが、なにか必然の時には、ちゃんとそれなりに色々な出来事や偶然が重なり、自分がしたいことができる、ということも幼いながらにも学んだ気がする。

そして、そんなアルザスの村に設立された学校の開校時には、私を含む中学1年生 18名、中学2年生 27名、中学3年生 25名、高校1年生 34名、高校2年生、28名の132人の入学が決まった。高校3年生については成城大学推薦入試の基準が高2、3年の成績が関係するため行われず、高校2年生が最高学年として始まった。中学生の私にとって、通常なら中学1年生から3年生までの環境で過ごすはずが、急に高校生の生徒も一緒に生活を共にする不思議な生活が始まったのだった。

まだ11歳だった

お陰さまで無事にアルザス行きが決まったが、4月から中学生になる私はまだこの時11歳だった。
家ではずっとこの学校に行きたいとお願いをしていたのだが、実はこのアルザス校に行こうと思っていることを友達など周りの人には誰にも言っていなかった。そして、アルザス校へ行くことが可能だと学校から言われた時はクラスでは「行きたい!」なんて声が多く上がっていたが、実際に志願書を提出したのは私だけだったのだ。

11歳でそんなことを決めて、家族を説得した私は、決して大人びていたわけではないが、私はこの頃少し冷めた子供だったように思う。本来であれば、通常、初等科から成城学園に入学している生徒はほぼ100%そのまま中学に進学する予定だ。そんな中、私はアルザス校に行くことを決めた。そして、志願者も他にいなかったので、できれば誰にも言わず、こっそり一人で皆と離れたかった。ただし、私はクラスではあまり目立たず、本を読むのが好きで、体格も小さくて細くてまさか私がアルザス校へ志願するとは学校でも思っていなかったようだ。そこで、学校では私が一人では可哀そうだと思ったのだろうか、学校から他の生徒に電話をして勧誘をし、最終的には中学1年生の志願者は2名となった。

じゃあ私は小学生の頃どんな子供だったかというと、いつもいつもマイペースで周りに流されず、自分がしたいと思ったことをする子だった。それがここで大きく影響したようだ。
今となっては周りは、私がこの学校に行ったから、今のような活動的でどこにでも行って、好きなことをする子に育ったと思う人も多い。けれど、私は元から自分の好きなことを好きなようにして、あまり周囲を気にしない子だった。クラスの皆が外で遊んでいても本が読みたいと思えば一人教室で本を黙々と読み、先生に「お前は皆と外で遊ばないのか?」と心配されるような子だった。

友達はいたが、それでも、自分がしたいことは一人で決めて、一人でも好きなことをするような子だった。だから、このアルザス校行きも誰かに話して決めたりしていなかったのだ。一人で考えて、一人で決めて、そして家族を説得していった。

アルザス校行きが決まった時も、仲の良い友達にも、少し心の準備をしてから、いつか言おうとも考えていた。けれど、入学が決まった次の日、担任の先生が教室で皆の前で「アルザス校にこのクラスから2名行くことになりました。」と喜んで話してしまったのだ。他の生徒の驚きはかなりのものだった。幼いながらに、私は本当に本当に先生を嫌だと思った。人の人生のことを、何故この先生は勝手に言うのだろうと思った。今思えば、人のプライバシーをそんな風に勝手に言っていいものかとも思う。

けれど、今思えば、小学校で各学年3クラスある中、この先生のクラスの2名だけが志願し(本来の志願者は私だけで、もう一人は先生が勧誘したのだが)自分のクラスからこんな小さな子がアルザス校に志願したということは恐らくかなり誇らしいことだったかもしれない。それにしても、そう言う事を皆に言って良いかということは、本人に確認するべくではないだろうかと幼いなりに思ったものだ。

それくらい、学校にしても、そこにいた小学生にしても、今同学年の小学生の子が、あと数カ月でフランスの田舎に行ってしまう事はかなり大きな出来事だったのかもしれない。そんな私はと言えば、実は海外にも行ったことすらなかったので、そこからパスポート取得、VISAを取る為の準備で身体検査があったり、色々書類を揃えたり、と準備などでバタバタしたのを覚えている。あの頃、エージェントなどもなく、学校に言われた書類や手続きを母親が一生懸命に準備をしてくれたように思う。

11歳の私は海外にも無縁な小さい子だった


11歳でフランス、アルザス行を決めた私は、私は海外にも行ったことない、旅行にも行ったことない、パスポートすら持っていない、そんな子だったのだ。ただただ、たまたま私の通っていた小学校がフランスのアルザスと言うところに分校を設立することになり、そこに行きたいと思い、そして志願してしまったのだ。もしも分校がアメリカにあればアメリカに行ったかもしれないし、アフリカだったらアフリカに行ったかもしれない。アイスランドだったら、アイスランドに行ったかもしれないだ。

フランスと言う国のことは少し知っていたし、フランス語だという事も知っていた。けれどフランスに憧れもなかったし、海外に憧れも持っていなかった。ただ、気持としては親に引かれたこの人生のレールの上を大学まで歩んでいきたくはないと思っていたのだ。そんなことを思っているときに

じゃあ受験すれば良いじゃないかと思われるだろうが、幼稚園の時の「お受験」が辛くて、キツくて、厳しくて、もう二度と人生であんな思いはしたくないと思っていた。だから、受験はしたくない、けれどこのままずっと親が決めた人生を歩きたくないと思っていた。そんなときにもらったアルザス成城学園の広告を見て私はすぐに「面白そう」と思って「行きたい」と思ったのだ。
「11歳の子がそんなことを決めるなんて。」と言われることも多いのだが、それは逆だ。11歳だったからこそ、あまり深く考えず、「この学校面白そう、行きたい。」という気持だけで、志願してしまったのだ。よく「思い立ったら行動しろ。」なんて言うが正にその通りなのだ。あまり深く考えず、自分の「行きたい」という気持だけを優先した。ただそれだけだ。

逆に大人になると、「行きたい。」というシンプルな理由だけで動けなくなることがある。お金のこと、家族のこと…それから行った後どうなるんだろう、フランスでの生活はどうなるんだろう?考えることはたくさんある。そして、考えすぎてしまって行けなくなる時もある。

私はシンプルに「行きたい」というだけで、その思いだけを貫いてしまった。そしてそんな考え方はその先も今も変わらず私の性格の元となっている。とりあえずやりたいと思ったことを大事に、自分の思いを大事に、生きていきたいと思っている。

この表題に使っている写真は2024年、元卒業生がアルザスに来て、一緒に母校を訪れた時の写真だ。
閉校し、別の機関が入っていただ、そこも撤退し、現在、普段は閉まっている門が開いているのだが、この日はたまたま開いていた。

日本から来た元卒業生の知り合いは「自分は運が良い」と言った。この学校が設立されたのも、「おもしろい」と思った思い付き的な気持ちと、それを実現させようとした行動力、そして、そこに運も関係していると思う。

運も自分で引き寄せるものだと思う。私もそう思って生きている。偶にこの門が開いているのを見かけたことがあって、実は私はこの日、この門が開いていると何となく思っていた。それは一緒に行った知り合いの「運が良い」人だからではなく、私は「誰かのやりたいことを叶えていく。」と言うことをしている。

ただただ願って待っているだけでは叶わないかもしれない。でも叶うと信じて前に進めばきっと開ける未来があると思っている。もちろん、自分のやりたいことのために嫌なことや辛い道を通ることはあると思う。それでも頑張って突き進んでいけば、きっとそれが実現する日が来ると私は信じていたいし、私の母校はそんなことを思わせてくれる、そんな場所なのだ。

人生は「面白い」でとんでもないことができるのだと信じて自分の信念や哲学を信じて生きていきたいと思うのだ。そしてそんな私の夢はこのアルザスの小さな村にあった全寮制日本人学校のことや自分の経験を本にして少しでも多くの人に知ってもらうことだ。だから、今こうして日々PCの前で文を書き続けている。いつかそれが実現できるように…。


★開校までの最初の経緯などはこちら




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