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(49)開戦の日/あきれたぼういず活動記

前回のあらすじ)
1941(昭和16)年夏。
地方演劇の流れに乗って、あきれたぼういずは北海道から台湾まで各地を巡業。
一方の益田はグループでの活動とは違う舞台を模索・奮闘していた。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

【川田のボイコット】

一方、川田義雄は1941(昭和16)年4月にミルクブラザースを従えて再び日劇出演。
当時公開され人気を呼んでいた映画「熱砂の誓ひ」を川田式にして演っている。
このとき、「無届であまりにハメをはづし過ぎる」というので警視庁へ呼び出され注意されており、そのステージのノリっぷりが分かろうというもの。

「熱砂の誓ひ」浅草花月劇場公演時の舞台。川田が李香蘭、岡村が長谷川一夫役だったらしい/都新聞1941年3月12日
日劇広告/都新聞・1941年3月26日

裏では相変わらず吉本との契約で揉め続けていたようだが、これがこの夏、とうとうこじれて舞台にも影響しだした。
都新聞(7月20日・8月18日)の報じた内容を要約すると以下のような経緯である。

きっかけは、川田が吉本側からの必死の交渉に負け、再契約を結んでしまったことだった。
川田の吉本興業との契約は翌1942年4月末で切れることになっていた。
しかし契約満了を待たずに辞めることも辞さないという川田を、吉本側はなんとか繋ぎ止めようとしていた。
ミルクが大阪へ公演に来た際に吉本興業の林正之助・弘高兄弟が川田と直接交渉。
二人の熱意に負けてか、川田は再契約を了承したのだった。

 問題は川田がそれ程不満を持っているなら尚一層、彼が芸人とマネジャーを自分独りで兼用している拙さがある、ここまで売った川田だ、何故思い切っていいマネージャーを探して、金銭問題はそちらへ任せ、自分は芸一念に進む手段を講じないのか?

『アトラクション怪話③』/都新聞・1941年8月18日

あれだけ抗議していたにもかかわらず、押され負けたように再契約してしまった川田を見るに、この都新聞の意見ももっともだと思える。

しかし、あきれた、ミルク、そしてのちのダイナブラザースと常にリーダーとしてグループを先導しているところからしても、何かと自分自身で決めていきたい性格なのかもしれない。
頭の切れる川田なら尚更だ。

川田はこの再契約について、ミルクブラザースのメンバーや自身の家族には自分から話をするから、それまでは黙っていてほしいと吉本側へ頼んでいた。
ところが、川田が大阪公演から帰るより先に、吉本側が川田の自宅に契約金を届けてしまった。

 予ねて彼の健康問題その他の理由から強硬に反対していた実父達や、或はブラザースの盟友達に対する思惑も兼ねて、再契約の事は、自分から機を見て関係筋に徐ろに諒解を求める態度に出るまでは絶対に秘密を守ってくれと立会いの林兄弟達と堅く約束したが、その結果は、川田を裏切った形になって、この事実は、川田が帰京する前に、逸早く川田の自宅へ伝えられ、何も知らずに契約金を受取らされた川田の細君櫻文子は烈火の如くに怒った舅と川田との間に板挟みとなって居堪まらず、到頭(とうとう)実家に帰るような羽目に陥ってしまった

都新聞・1941年7月20日

最愛の妻・櫻文子が実家に帰ってしまう事態に、ついに川田は怒り心頭し、吉本へ辞表を送りつけて舞台出演も拒否してしまった。

この状態が数ヶ月続き、ミルクの他メンバー達もその間舞台に出られずにいた。
頭山光は「遊んでいて月給を貰っているのは申し訳ない」と国防献金に献金している一方、有木三多は一色皓太郎「銀座新装」(ビクター・8月新譜)に曲を提供したりしている。
8月頃からは、二人だけ吉本ショウに参加。
岡村龍雄は川田の弟でもあり、川田と行動を共にする決意なのか舞台には出ていない。

頭山・有木のみ参加の吉本ショウ/大阪毎日新聞・1941年8月21日

その後、川田と吉本との間にどういう展開があったのか分からないが、10月に「川田問題解決・依然吉本出演」という記事がでている。
十一日岐阜を振出しに関西各地を巡業、吉本興業下に再起することとなった」(京都日日新聞・10月12日)ということである。
結局、今まで通りミルクブラザースを引き連れて、吉本興業の舞台に出演することになったようだ。
岐阜・関西の後は、四国巡業、そして満州・朝鮮まで足を伸ばしている。

地方演芸重視の時世とはいえ、復帰するなり地方巡業というのは、ちょっと吉本側の当てつけのような印象を受けてしまう。
「川田問題解決」とあるが、果たして、川田の訴えていた休暇の面などどの程度改善されたのだろうか。
後の出来事を思うと、あまり改善されているとは思えないが……。

【12月8日】

そして、1941年12月8日。
真珠湾攻撃とともに、日本はついにアメリカに向けて火蓋を切る。
のちに太平洋戦争と呼ばれる戦いが始まった。
当時は、1937年からの日中戦争を含めて「大東亜戦争」と呼んだ。

この日、川田はまだ巡業中で、朝鮮京城で開戦を知った。
同日、都内の劇場の様子を都新聞から拾ってみよう。

「興行街戦時体制強化」
 興行街ではこの事態に応じて、八日からは興行開始と共に場内マイクを通じて刻々のニュースを放送した

「宣戦布告と浅草」
 宣戦布告せられるや、浅草はサッと色めき勇み立ち、我等舞台の上より、芸能によって国民の志気を鼓舞せんと――国際劇場の松竹少女歌劇実演では日章旗と海軍旗を高々と掲げ、愛国行進曲を合唱、少女たちの間では、感極まって絶叫せんばかりの者もある

「その夜の劇場」
 各劇場は幕間に、午後七時一斉に全国民必聴のラジオ放送の予告を行い、まず高らかに国歌「君が代」が送り出された、歌舞伎座は菊五郎の「うかれ坊主」が恰度切れたところ、東劇の松竹家庭劇は「村の医者」の開幕直前、…(中略)…国歌演奏直前に客席、楽屋共に一斉起立、やがて場内拡声器を通じて、御詔書が格調正しくアナウンサーに依って謹読された
 表方、案内嬢も頭を下げて恭しく大御心を謹聴、咳一つ聞えぬ一瞬の静寂と緊張とが、華やかな劇場の緞帳前に展開され、次いで東條首相の録音放送、一億国民鉄石の団結は、しっかりとこの夜各劇場に集った人々の胸に刻み込まれ、斯くて芸能報国の真摯な意気に燃える人々の演技は再び続けられたのであった

以上すべて都新聞・1941年12月10日

演芸娯楽への締め付けは、日中戦争下に増して一層強くなっていく。
「一億火の玉となって」この大戦を戦い抜くための「国民娯楽」として、大衆に精神的団結力と士気を与える役割を果たさなければならない。

情報局が12日に芸能関係者との懇談の場で指示したという国民娯楽の基本方針は次のようになっている。

 これには演芸、演劇、映画等芸能娯楽のいたづらな抑圧を避け、寧ろ積極的に指導して活溌旺盛ならしめ娯楽を通じて民心の躍動に寄与せしめる方針を採る、娯楽は雄大明朗、健全清純なものとし時局的キワ物を廃して将来の国民文化を昂める方向に進むものとする

「娯楽は明朗に」一部抜粋/都新聞・1941年12月12日

ジャズ等の「敵性音楽」の排撃により、「ボーイズ」の活動は息苦しくなるばかりだ。
もっとも、この頃にはすでにボーイズの数は激減しており、本家ともいえるあきれたぼういずやミルクブラザースが奮闘するばかりであった。

 大東亜戦争勃発後、英米の流れを汲む一切のものは、舞台からもボックスからも放逐されようとした時に、これで痛手を蒙るものの一つに、ジャズを生命とする所の所謂何々ボイズ、何々ブラザースの軽演芸団がある、と心配したのは最も早手回しの心配のようであって、実は最も無用の心配になっていた
 というのは、これ等軽演芸団のどれこれは、英米撃つべし! の大東亜戦が勃発するより先にいつとはなく消え果て去っていたからである
 …(中略)…
 しかし世間というものは、ただ新奇、流行を逐うだけの他愛もののように見えて、実は厳正な批判者であり、この批判者の前に、付焼刃であり、一夜漬けであり、そうして腕に覚えのない連中の寄合世帯の何々軽演芸団は、ウタカタの如く敢なく消え去って、残るは家元格のミルク・ブラザースと、分け格のあきれた・ぼういず等位のものになってしまったのである

「芸弾:腐った雨後の筍」/都新聞・1941年12月30日

ボーイズが生き延びる道は、あるのだろうか……。


◆昭和16年まとめ

【舞台】

一年間でのそれぞれの舞台公演はざっと以下の通り。

あきれたぼういず

京都松竹劇場・浪花座・神戸松竹劇場を巡演。
4月には京都南座で「新興キネマ演芸部創立二周年記念公演」。
6月〜8月は全国各地や台湾まで巡業。確認したものでは…

(地方巡業公演)
・神戸有楽館
・新富座(下関)
・博多演芸館(福岡)
・粟ヶ崎遊園(石川県内灘)
・エンゼル館(札幌)

この合間に浅草電気館でも公演1回。
巡業が多かったためか、上京公演は昨年と打って変わって少なかった。

(上京公演)
・浅草電気館(1回)
(単発アトラクション)
・新興キネマ演芸部・甲子園球場野外公演

京都松竹劇場広告/京都日日新聞1941年10月31日

川田義雄とミルク・ブラザース
浅草花月劇場のほか、
・京都花月劇場(3回)※うち1回は頭山と有木のみ
・日劇(3回)
・新宿帝国館

(単発アトラクション・特別公演)
・「吉本芸道大会」東宝劇場/新宿帝都座
10〜11月に岐阜、四国各地、満州、朝鮮巡業。

新宿帝國館広告/都新聞1941年6月5日

益田喜頓(5月〜)
・浅草帝国館
・新宿東宝(アトラクション含め3回)
・東宝朝日劇場
・函館公樂映画劇場

【レコード】

この年のレコードは以下の通り。
「浪曲温泉」「浮世床屋」と、第二次あきれたぼういずのスケッチコントがいよいよ洗練されていて素晴らしい。
「楽しき南洋」は「消えトン」最中の吹き込みで、三人のみの参加である。
ミルクは昨年の「新版桃太郎」の続編を出している。四面続きの長編だ。
先述の通り、有木三多作曲の「銀座新装」も発売されている。

あきれたぼういず
・珍勧進帳/村の防護団
・浪曲温泉
・浮世床屋
・楽しき南洋

都新聞・1941年1月19日

ミルクブラザース
・続新版桃太郎

川田義雄
・かはつたフォスター集/愉しき週表
・笑和大学/声楽指南

都新聞・1941年12月6日

有木三多(作曲)
・銀座新装(歌唱は一色皓太郎)

【映画】

あきれたぼういずは映画出演なし。
これまでの出演作では舞台そのままの「ネタ見せ」的な要素が多かったので、「七・七禁令」の影響で出しづらくなったのだろうか。
「素晴らしき金鉱」は柳家金語楼と川田が父子役のダブル主演作で、オール朝鮮ロケである。

・昨日消えた男(川田)
・歌へば天国(益田)
・素晴らしき金鉱(川田)

「歌へば天国」広告/都新聞1941年6月9日
「素晴らしき金鉱」朝鮮ロケ風景、中央が川田/都新聞1941年6月5日

【ラジオ】

 確認できたラジオ出演は、3月25日「春は歌に乗って」(ミルク)のみ。


【参考文献】
『松竹百年史』東京松竹/1996
『近代歌舞伎年表 京都篇』国立劇場近代歌舞伎年表編纂室/1995
『近代歌舞伎年表 大阪篇』国立劇場近代歌舞伎年表編纂室/1994
「都新聞」/都新聞社
「京都日日新聞」/京都日日新聞社
「神戸新聞」/神戸新聞社
「北海タイムス」/北海道新聞社
「函館新聞」函館新聞社
「北國新聞」/北國新聞社
「福岡日日新聞」/福岡日日新聞社
「関門日日新聞」/関門日日新聞社


(1/14)ミルクの解散

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