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(64)あきれたの渡米②/あきれたぼういず活動記

(前回)のあらすじ
川田晴久につづき、坊屋・益田・山茶花のあきれたぼういず一行も1950年6月末から渡米。まずはハワイで大歓迎を受け、アメリカ本土からやってきていた三人組ヴォードヴィリアン「タップナチュアス」とも交流した。

【アメリカでテレビ出演】

8月14日からはハワイを離れ、アメリカ本土を巡演。移動はやはり車で、ロサンゼルス、カリフォルニアからユタ、オレゴンなど八州ほど廻っている。

しかし川田らとは招聘主が違うからか、巡った会場が違ったせいか、のちの坊屋や益田の話からも過酷さはあまり感じられない。
帰国後すぐに雑誌『面白倶楽部』に掲載された座談会記事でも、

山茶花 うれしかったことは、日系米人だとか日本人がアメリカ人の中でも地位の高いことですね。つまりほかにも種々雑多な人種がいるんですからね。日本人が一番雑種の中では幅をきかしているというほど、根づよく食いこんでいて、たのもしい限りです。そんなわけで、日本人はどこへ行っても恥かしくないんですよ。
益田 そら、女の人がサブちゃんのところへ来たじゃないか。僕たち、テレビジョンには二度ほど出演しましたから、それを見た人でしょうかね、アメリカ人でね、『この間テレビジョンに出たわね』なんかいって実に馴れ馴れしく寄ってくるんですね。芸術家だとそういうようにみんなに温かい眼でみられるんですね。

「呆れたボーイズ米国珍漫遊」/『面白倶楽部』1951年1月号

と語っている。話題に上がっているように、川田らと同様テレビ出演を果たしており、やはり印半纏で出演したようだ。

『時事世界』1950年10月号

 こうして約三か月、アメリカ公演をやったわけだが、一番思い出に残るのは、ロスアンゼルスでCBSテレビに出演したことだなァ。
 これは毎日やってるショー番組で、「ジャパンからやってきたあきれたぼういずを紹介する」テナわけで出演したんだが、これがウケた。それで、プロデューサーが「あしたも出てくれ」ときたもんだ。
 これには困った。そのときの出し物は『マンガのダイナ』とか長唄を入れた狐忠信の千本桜……あの得意の、ギターを裏返しにして所作台に見立てるヤツだ。
「あしたも出ろったって、他には出し物がないんだ」というと、そのプロデューサーが「セイムOK、トウモーローOK」ってんだ。「同じもんでよけりゃあ、出ようじゃあねえか」と引受けたが、そのときにカメラマンが「舞台でカメラマンとひと言いってくれ」というんだナ。
 一体、なんのためかわからなかったけど、「プロデューサーやカメラマンがもう一度出てくれというので、やってまいりました」と挨拶すると、そのカメラマンが手叩いて喜んでるんだ。映しながらだョ……。ヤンキーってのはフランクでいいねェと思ったもんだ。

坊屋三郎/『これはマジメな喜劇でス』

渡米公演中、坊屋の愛用楽器、洗濯板が熱演に耐えきれずバラバラに壊れてしまったそうだ。
帰国後作り直した「二代目」を、晩年まで使っている。

座談会記事を読むと、英語が話せないので「コーヒー」を注文するつもりが“coffin(コーフン:棺桶)”を注文して笑われたり、男の子に英語で話しかけたところ母親から「その子は日本語はわからないんです」と言われて恥をかいた、などといったエピソードも。
街中ではコカコーラの自動販売機に感動し、「自動販売器を見るたんびに金を入れて、飲んでるんだから、しまいには腹がガブガブになっちゃいました。(笑)」(山茶花)という楽しそうな話も。
想像するとなんとも微笑ましい。

【メジャーリーグ観戦】

 シカゴではメジャーリーグも観戦。

 「喜頓の野球見物」
廿四日ごろには帰国する益田喜頓からの便りによると、彼は最近シカゴでメジャーリーグを見物したが、打力のすごさや外野手の肩のよさに驚いた由「ぼくたちは余りのファインプレーに夢中で手をたたいていたら、前にいた男が、キミ達はどっちかのチームに決めて手をたたけよ、というので、どっちがいいかときいたら、それはキミの自由だよとやられました、流石は自由の国です」とは喜頓らしい便り

東京新聞・1950年9月21日

自由の国アメリカを満喫し、川田やひばりに比べると和気あいあいと楽しい旅という印象だが、最終日にはこんな出来事も経験している。

 ところが、最終日のシカゴで夜中にホテルの前で黒人同士によるピストルでの射殺事件が起き、目を覚まして窓から見ましたら、一人は即死のようでした。翌日ホノルルへの飛行機の中で「もっとアメリカの裏も見なくては、一カ月や二カ月では何にも分からないものだ」と私共は話し合ったものでした。

益田喜頓/『キートンの人生楽屋ばなし』

川田・ひばり同様、あきれたぼういずもたくさんの経験、発見のある意義深い渡米になったことだろう。

【帰国公演・有木の渡米】

9月22日には帰国、9月28日から国際劇場で帰国公演を行い、11月19日にはラジオ寄席で「ハワイ珍道中」を放送。
ここの流れも川田とそっくり同じなのがおかしい。
そして1951年1月新譜でレコード「ハワイ珍道中」も発売している。

川田とひばり以前には、田中絹代が渡米しており、以降続々と芸能人がハワイやアメリカへ渡っている。
翌1951年には有木山太も菅原都々子らと渡米。
5月14日出発、ハワイで2カ月・北米で1カ月というスケジュールで巡演している。


【参考文献】
『キートンの人生楽屋ばなし』益田喜頓/北海道新聞社/1990
『キートンの浅草ばなし』益田喜頓/読売新聞社/1986
『これはマジメな喜劇でス』坊屋三郎/博美舘出版/1990
『時事世界』1950年10月号/時事世界社
「呆れたボーイズ米国珍漫遊」/『面白倶楽部』1951年8月号/光文社
東京新聞/東京新聞社


(次回4/28)あきれた帝劇出演・川田の新芸プロ設立

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