(53)解散後それぞれ/あきれたぼういず活動記
(前回までのあらすじ)
1942(昭和17)年に新興演芸部に戻ってきた益田は大阪の劇場を中心に出演していた。
翌年に新興快速舞隊(あきれたぼういず)が解散、坊屋や山茶花もそれぞれ個人で活動する道を探すこととなる。
※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!
【益田喜頓、座長から工場長に】
色川武大の『あちゃらかぱいッ』は(16)〈グラン・テッカール旗上げ〉でも紹介したが、この時期のあきれたぼういずメンバー達の活動についても触れられている。
中でも、益田喜頓については「四十数年たった今でも鮮烈に憶えている」という新聞記事のことを回想している。
色川はこの劇評にいたく同情して、以降、益田の出演する舞台や映画を熱心に観ていたという。
あきれたぼういず時代の十八番だった裏声のハワイアンヨーデルも「扇状的」だとして禁じられた。
ボーイズを離れてもなお、益田にとっては演りづらい時代だっただろう。
1943年春、ちょうど新興快速舞隊が解散した同じ頃に、益田は自身の一座「劇団喜劇座」を立ち上げた。
旗上げの際、東京新聞(2月17日)で益田は「結成後は当分オペレッタと芝居の二本立でゆきますが、各方面の方に指導を仰ぐため、近く上京します」と語っている。
初めは大阪で活動していたが、やがてその言葉通りに上京、昭和演劇と契約し金龍館へ出演。
色川に鮮烈な記憶を残した劇評は、この時期のものらしい。
それらしき公演が7月に確認できる。
一ヶ月間、色川が書いている通りの三つの劇団が金龍館で合同公演をしており、東京新聞には彼の記憶に近しい舞台評も載っている。
8月末に昭和演劇との契約を解除し、9月からは吉本興行と契約。
再び浅草を離れて、京都花月劇場に出演。
同時に如月寛多や森健二、草香田鶴子等を一座に迎えている。
そして11月から再度上京、渋谷ジュラクと三ヶ月契約を結んで翌1944(昭和19)年2月まで出ている。
広告を見ると「ミス花月改め奈良ひとみ特別出演」とあり、夫人も一緒に舞台に立っていたようだ。
関西と東京を数ヶ月おきに行き来している形だが、色川少年は東京の小屋に姿が見えないと本当に「抹殺」されてしまったのかと気を揉み、久々に名前を見つけると安心していたそうだ。
しかし2月以降、いよいよ公演広告が出てこなくなる。
益田によれば、団員達が次々と出征してゆき、解散せざるをえなくなったという。
一座を解散した益田は、残った座員数人とともに大阪に移り、杉狂児の一座と合同で浪花座等にしばらく出ていたようだ。
ところが、1945年3月13日、大阪大空襲で焼け出されてしまう。
益田は妻の奈良ひとみ(ミス花月)と二人、列車と船を乗り継いでやっとのことで故郷の函館へ帰った。
義弟は道内にいくつかの製材所を持っていたので、製材工場の仕事を工面してくれたのだ。
益田は妻と母、妹のために大沼の駒ヶ岳のふもとに疎開用の家を買い、一人芽室へ赴いて製材工場長となった。
役者だと知られたら舐められると思い、最初は隠していたのだそうだが、いつの間にかバレてしまい、「狸御殿のカッパさん」としてむしろ親しまれたのだそうだ。
初めは知識も経験もないので自信がなかったという益田も、彼らしい知恵とユーモアで工場長をこなしていったのだった。
【坊屋三郎の司会業】
解散後の坊屋について、『あちゃらかぱいッ』には「しばらく静岡で実業についていたというが、水の江滝子の劇団に客演の形でひょっこり顔を見せた」とある。
当時の新聞を見てみると、水の江滝子が立ち上げた「劇団たんぽぽ」、1943年7月31日からの邦楽座公演に坊屋の名前が出ている。
しかし、直後に新興演芸と揉めたようで、8月21日からの広告では、名前が消えている。
記事では「また次回に」とあるが、結局続報はなく、しばらく紙面で名前を確認できない。
12月31日から、再び劇団たんぽぽの公演に名前が復活しているので、新興演芸との問題は一応解消したものと思われる。
広告では名前に「ギター漫談」等の文字を冠している。一人ボーイズのようなスタイルだろうか。
1944年3月以降、しばらく公演を確認できないが、「軍需工場に慰問に行ったり、そうかと思うと灰田勝彦の司会をやったり、結構忙しい毎日だった」とのちに自伝で記している。
灰田勝彦との仕事は、終戦後も続いていくこととなる。
また、1945年1月には映画「天晴れ一心太助」に出演している。
【山茶花究と森川信一座】
1943年6月、大阪浪花座で森川信一座(新青年座)が旗上げされる。
山茶花究はこの一座へ参加。
翌1944年の新春公演から念願の上京、浅草国際劇場で公演を打っている。
国際劇場は軍需工場で働く「産業戦士」の半額優待が好評だったこともあり、正月三ヶ日の興行収入が三万円を突破、全国一位だと報じられている(東京新聞・1月8日)。
3月からは、金龍館へ場所を移し、以降浅草を中心に都内劇場を回っている。
喜劇の他に、シリアスな芝居にも挑戦しているようだ。
10月の「勧進帳」(浅草大勝館)については、「初心の見物も飽かさずに惹きつけて、軽演劇歌舞伎としては正に成功、山茶花究の弁慶の勉強ぶりは買われていい」(東京新聞・10月29日)とかなり評価されている。
この頃の舞台を作家の都筑道夫が観ており、その演技力に驚いたことを「キネマ旬報」に綴っている。
都筑は、あきれたぼういず活動時分、川田の代わりに入ってきた山茶花に良い印象を持っていなかったというが……
この時培った演技力が、のちの「夫婦善哉」に始まる数々の映画での名脇役ぶりに繋がっていくのだろう。
11月以降、森川信一座の広告に山茶花の名前が出てこなくなる。
1945(昭和20)年2月には蒲田大東亜館で漫談をやっているのが確認できるので、一座を抜け、個人で活動するようになったものと思われる。
【参考文献】
『これはマジメな喜劇でス』坊屋三郎/博美舘出版/1990
『キートンの人生楽屋ばなし』益田喜頓/北海道新聞社/1990
『あちゃらかぱいッ』色川武大/文藝春秋 ※文春文庫版(1990)より引用。初出は「別册文藝春秋」第150号(1980年1月)
『喜劇王・益田喜頓のすべて』益田喜頓/日本ウインザー/1968 ※LPレコードより文字起こし
『辛味亭事苑:だれか軽演劇史を書かないか』都筑道夫/「キネマ旬報」1970年11月下旬号
東京新聞/東京新聞社
大阪毎日新聞/大阪毎日新聞社
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