(44)活路・昭和15年①/あきれたぼういず活動記
(前回のあらすじ)
それぞれ、グループの方向性を模索しつつも舞台、映画、ラジオ、レコードに活躍する両ボーイズ。
川田と坊屋・芝・益田は、分裂以降ようやく叶った対面で腹を割って話すことができた。
※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!
分裂1年目には、オリジナル時代のあきれたぼういずや、他のボーイズグループ達とどう差別化していくかが課題となっていた両グループ。
2年目となる1940(昭和15)年には、それぞれの形で突破口を見出していく。
【あきれたぼういず、動きに活路】
第2次あきれたぼういずは、2月に上京、浅草松竹座にて2度目の東京公演を行っている。
都新聞の舞台評を見るとタイトルは「桜変奏曲」で、寸劇めいた短いネタを次々に繰り出すという形式、最後は「桜の人力車での引込み」という華やかなものだ。
そして興味深いのは、「四人の激しい動きに、呼吸が合っている」という評だ。
同じ舞台について「演芸一皿料理」でも「彼等は遂に動きに活路を見出したらしい」と書かれている。
さらに「月曜壇場」では
「アキレタボウイズがチームワークの良さと呼吸の旨さで、はっきり音楽を従としたギャグマン、四人漫才を狙っているのは賢明であり、これなら独自のものとして生命が長かろう」
とも言われている。(月曜壇場「ハットボンボン」/都新聞・1940年2月19日)
その後も3月、5月、8月と上京公演。
そして11月に同じく浅草松竹座で上演した「駅馬車」ではもはやギターを持たず、歌と踊りを織り交ぜたスピード感あるコントといったような形式のショウも試みている。
作・構成は淀橋太郎。
この後も戦後まで、たびたびあきれたぼういずの台本を手がけている。
どうやら、あきれたぼういずは音楽よりも動きに特化し、四人コントのような芸風を確立してきているようだ。
再三言われてきていた「第1次あきれたぼういず時代の焼き直し」から脱却し、独自の方向性で認められてきている。
こうしたあきれたぼういずの芸風の変化は、新興演芸部全体の目指す漫才・演芸路線による影響も大きいだろう。
昨年9月の東京初公演もそうであったが、新興演芸部はワカナ・一郎ら漫才陣を押し出して、ショウというよりも演芸大会といった路線を打ち出していっている。
関西を拠点とする点も関係しているのだろうか。
【日劇を沸かせるミルクブラザース】
ミルクブラザースは正月公演で初めての京都進出。
その後も京都や神戸など関西での公演が多く、こちらもホームのはずの浅草花月劇場を留守がちにしている。
お互いに人気を広げていこうという方針なのだろうか、不思議な現象だ。
本年初のホーム公演、3月初日からの浅草花月劇場「吉本謝肉祭(カーニバル)」では、
「川田義雄等のミルク・ブラザース一党四人が所謂イキを合せる点で成長を遂げ、題材に特に新奇なものもない代りに、その何れもよくコナしてのけて、さすがにこの種ヴォードビル団の家元たる格を示していた、頭山光の飄逸味が一寸目立つ」
と評されている。(都新聞・1940年3月6日)
「あきれたぼういず」という名前は移籍組に奪われた川田だが、世間的にはあくまで「ボーイズの元祖」であると捉えられているようで、芸風としてもオリジナル時代のものをより洗練させている印象がある。
ただ、川田のカラーがより全面に押し出されており、また「アッコーデオンとバイオリンが入った為に、ギターだけでは出せない舞台情緒、いろんなメロディーを混成させる事が出来て、あきれたの舞台より賑やかになった」ようで、やはり音楽的な豊かさが強みとなっている。(演芸一皿料理/都新聞・1940年6月12日)
6月には日劇で公演。
昨年は吉本ショウ全体での出演だったが、今回はミルクブラザース四人だけで20分あまりの大舞台をこなしている。
あきれたぼういず時代に「三回り半」客が並んだというあの時と同じ条件で、川田らしいネタ満載の迫力あるステージを展開した。
あきれたぼういず時代から、より音楽的な方向性に進んでいったミルクブラザースだが、彼らを擁する吉本ショウそのものもまた、音楽的な豊かさを求めて進化していった。
この年の3月頃、谷口又士を中心に吉本スイング・オーケストラを編成し、ショウの中でも楽団がより存在感を示していくようになる。
これは、1938(昭和13)年に吉本興業東京支社長の林弘高が渡米し、アメリカのショウを見て学んで来たことによるようだ。
【参考文献】
『ジャズで踊って』瀬川昌久/サイマル出版会/1983
『松竹百年史』東京松竹/1996
『近代歌舞伎年表 京都篇』国立劇場近代歌舞伎年表編纂室/1995
『近代歌舞伎年表 大阪篇』国立劇場近代歌舞伎年表編纂室/1994
「都新聞」/都新聞社
「京都日日新聞」/京都日日新聞社
「神戸新聞」/神戸新聞社
(次回12/10)七・七禁令「贅沢は敵だ」!