(21)吉本ショウでの活躍①/あきれたぼういず活動記
※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!
▶︎ここからは、「あきれたぼういず」結成前の川田・芝・坊屋の吉本ショウでの活躍について、当時の資料を中心にいくつか紹介していきたい。
(益田は、オオタケ・フォーリーに所属しているとは思われるが、先述のように吉本ショウの資料には登場してこない。)
◆いつまでも印象に残る川田の歌◆
吉本ショウ第3回、1935(昭和10)年12月11日からの「ハッチャッチャランド」について、吉本興業が発行していた大衆娯楽雑誌『ヨシモト』に感想が寄せられているが、この中に、川田義雄のことが出ている。
第1回から吉本ショウに参加している川田は、早くから活躍し人気もあったようだ。
横浜で永田キング一党に参加していたときと同様、ここでもやはり、川田の「歌手」としての魅力が語られている。
筆者は川田の歌声を聴くたびに、この「子守唄のような運命的な情緒…」という言葉を思い起こす。
◆ラジオ出演◆
1936(昭和11)年1月12日のラジオ放送「ニュースヴァラエティ・一九三六年NO1」は、ニュース仕立てのバラエティで、ピッコロ座のメンバーや漫才師のラッキー・セブン等の吉本芸人達が出演している。
川田義雄が主にアナウンサー役として出演している。
ここでは、その喋りの達者さが存分に発揮されたであろうと想像される。歌に喋りに、つくづく多彩な存在である。
1936(昭和11)年8月23日のラジオ放送「漫才くらべ」には、吉本ショウのメンバーが出演。
「逝く夏を唄おうよ」と題した漫才ショウを放送している。
大竹や芝、そして白川などオオタケ・フォーリーメンバーの出演が目立つ。
また、川田が三枚目役で活躍しているようだ。
ミス花月は吉本ショウの歌手で、男装して低音の個性的な歌声を披露していた。のちに益田喜頓夫人となる人である。
◆江戸ッ子シュバリエ君◆
秋には、確認できたものでは初めての、芝利英についてのコメントが『ヨシモト』誌に出ている。
「オオタケフォリーズでショウ専属になった」というのは微妙な書き方だが、
のちに坊屋は「私が吉本ショウに居た時代に、彼は大竹フォリーから身売りして来て…」と語っているので、オオタケ・フォーリーを抜けて完全に吉本ショウ専属になったということだろうか。
◆ショウの中での活躍◆
1936年末から1937年始め頃の公演パンフレットを見てみると、川田ら三人はメインの寸劇のほか、短いコントや歌、踊り(タップ)などによく出ているようだ。
とくに、川田と芝がコンビでよく一景もののコントをやっている。
「都新聞」演芸面の投書欄「月曜壇場」にも、「芝利英と川田義雄のコントはなかなか良い味を持っている」(1937年3月15日)「川田、芝のコントはあまりにも常套的」(同年5月3日)などの芸評が出ている。
坊屋は歌、とくに女性陣のダンスパートでの伴唱も多い。
瀬川昌久の『ジャズで踊って』では、吉本ショウについて舞台の内容にも触れつつかなり詳しく書かれている。この頃の吉本ショウについて、
とある。この頃から既にこの三人で絡んで舞台に出ていたことがわかる。
(後編につづく)
【参考文献】
『ヨシモト 復刻版』/吉本合名会社/吉本興業/1996
『ジャズで踊って』瀬川昌久/サイマル出版会/1983
『にっぽん民衆演劇史』向井爽也/日本放送出版協会/1977
『吉本興業百五年史』吉本興業/ワニブックス/2017
「朝日新聞」/朝日新聞社
「都新聞」/都新聞社
(7/2UP)吉本ショウでの3人の活躍ぶり・後編