(2)浅草のハモニカ小僧:川田義雄①/あきれたぼういず活動記
▶︎今回から3回にわたって、川田義雄について書いていきたい。
まずは、彼の生い立ちから……
【根津で生まれて小石川で育ち】
川田義雄は江戸っ子である。
本名、岡村郁二郎。
1907(明治40)年、東京市本郷区根津八重垣町(※1)に生まれた。
家は英文や露文などを扱う印刷所で、父・岡村嘉松と母・ちか、2歳上の兄がいる。
川田が小学校へ入る前年には、6つ下の弟、隆吉が生まれた。
のちにミルクブラザースで共に活動する、岡村龍雄である。
父が放蕩がちであったため生活は裕福とはいえなかったが、小さい頃から、父や母、兄に連れられて、よく浅草へ遊びに行った。
「ルナパーク」にあった汽車活動、電気館で観た活動写真、路上の物売りや化け物の見世物小屋。
川田は昭和15年に雑誌『中央公論』に掲載された「あきれた自叙伝」で、そんな当時の思い出を語っている。
1916(大正5)年頃、根津から小石川へ引っ越してからは、一人でも浅草に通うようになった。
学校の成績は、唱歌と体操だけはいつも「甲」。
また、レコードで聴き覚えた浪花節で大人をうならせるほど、すでに才能を現していた。
しかし小学4年のとき、肋膜炎にかかり休学。
【病をかかえつつ、浅草に入り浸る】
そして、ある事故が元で、卒業後もほとんどを病床で過ごすこととなる。
友達と棒高跳びのように屋根と屋根を跳んで渡る遊びをしていたときに地面に落ち、このときの骨折がもとで脊椎カリエスになってしまったのだ。(※2)
この脊椎カリエスが、川田を生涯苦しめることとなる。
小学校を出てすぐには、家を出てブリキ工場へ丁稚奉公に出たこともあったようで、また一時は横浜の知り合いがやっている商館を手伝いに行ったりもしたが、病気のせいもあり長続きはしなかった。
あとは家の印刷業を手伝っていたので、「今でも文選位は出来ます」と、のちに語っている。
治療と療養の日々を余儀なくされた川田だったが、じつは医者に行くと行って家を出たきり、毎日のように浅草六区へ入り浸っていた。
それでかえって丈夫になったのは「我ながら呆れたもの」だそうで、それだけ浅草の活気に魅せられていたのだろう。
観るばかりでなく、自分でもバイオリンを弾いたり、ハーモニカを習ったりした。
20歳のときには手術を受け、その後2年間、療養を続ける。
(※1)「明朗ユーモア座談会」(都新聞・1940年9月1日)では、「生れは根津片町十四番地」と語っている。ここでは『川田晴久読本』を元に、「根津八重垣町」とした。
(※2)時期については資料によってズレがあり、1916年頃=9歳前後の頃とも、15歳のときのこととも。
※引用箇所の文字遣いは現代のものに改めています
【参考文献】
「川田義雄訪問記…家庭第一主義の愛妻家」宮薗姚子/『スタイル』1940年8月号
「あきれた自叙伝」川田義雄/『中央公論』1940年春季特別号
『川田晴久読本』池内紀ほか/中央公論新社/2003
「川田義雄の半生記」瀬川昌久
「川田晴久年表」岡村隆太
「明朗ユーモア座談会」/都新聞1940年9月1日/都新聞社
▶︎(2/19UP予定)川田、デビューする