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(51)ボーイズ時代に終止符/あきれたぼういず活動記

前回のあらすじ)
1942(昭和17)年。
川田義雄が脊髄カリエス再発で倒れて入院、ミルクブラザースは解散した。
あきれたぼういず改め新興快速舞隊は、芝利英が出征し、穴埋めに長井隆也が加入。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

【岡村龍雄の活躍】

1942(昭和17)年12月、岡村龍雄は吉本を離れ、清水金一一座の浅草金龍館公演に特別出演している。

東京新聞・1942年12月17日

そして1943(昭和18)年元旦からは、新生「笑の王國」に参加、浅草常盤座に出演。
以降、松本秀太郎・山口正太郎とともに笑の王國の中心になって活躍していく。
旗上げ直後の都新聞の舞台評では、「顔触れも新らしく、活気ある舞台を見せている」(1月31日)と期待を寄せられている。

笑の王國は6月に「劇団青春座」に改称、舞台開演前の時間を利用して軍需工場へも慰問に赴くなどますます精力的に活動している。

 劇団青春座ですね、あれはいまの浅草では一番いいと思うね、演技は別として、精神も、演っているモノも一番いいと思うね、兎に角向上しようという気持が十分に見られる

菊田一夫「大衆演劇弾丸座談会」/都新聞・1943年9月28日
笑の王国・常盤座公演プログラム/1943年5月29日
軍需工場慰問を取り上げた記事(写真右が岡村)/東京新聞・1943年9月6日

【入院中の川田】

川田の近況も時折新聞に出て、ファンを安心させてくれている。
まだ舞台には出られないが、杖をついて歩けるようになると浅草へ出向いて、岡村の舞台を見物したりしている。

 慶應病院に入院一年近く到頭ここで越年した川田義雄、今では外歩きが出来るようになったので、あッたかい日などつとめて外気に触れているが、そうして足が向くのは懐かしの浅草で、昔一世を風靡した何とかブラザースなどというものは、今は跡形もなく消え失せ、我が一党の一人、弟の岡村竜雄などは、笑の王國の舞台へ出ている姿を見て感に堪えず、テモ変ったものじゃなァ

「噂の通信筒・有為転変」/東京新聞・1943年1月24日

そして4月30日、九段軍人会館にて「遺家族慰安奉納演芸大会」が開催され、これに杖をつきつつの出演。
一日限りの舞台ではあるものの、ちょうど一年振りにステージに立つことになった。
岡村も応援に駆けつけて共演している。

 川田浪曲ならぬカワッタ浪曲や掛合い漫談等が出るというが之がウマく行けば遠からず退院次いで更生川田義雄の舞台も見られる事になろうというものである

「丸一年振で川田が出演」/東京新聞・1943年4月28日

【ボーイズ時代に終止符】

一方の新興快速舞隊は 、1943(昭和18)年3月20日から29日まで、芝の出征後初の上京。
再び新宿大劇場で公演している。
そして坊屋は、これを最後に新興快速舞隊の解散を決める。

東京新聞・1943年3月25日

4月1日から京都座で「新興演芸創立五周年記念興行」を打っており、ここにも「新興快速舞隊(あきれたぼういず)」の名前があるが、坊屋の名前はない。(山茶花、音、長井のみ)
そして「新興快速舞隊」の名前自体も、これを最後に消える。

「新興快速舞隊」最後の公演/京都新聞・1943年4月1日

1937(昭和12)年、日中戦争開戦と同時に結成したあきれたぼういず。
そこから瞬く間に広がっていった「ボーイズ」の灯も、ついに吹き消された。
東京新聞(都新聞・国民新聞が統合)はこれを演芸界の一つの節目として記録している。

“新興快速部隊”解消
ボーイズ時代に終止符

 新宿大劇での新興演芸興行は、廿九日打揚げたが、これと同時に坊屋三郎達のあきれた・ぼういず改め新興快速部隊が解消してしまった、あきれた・ぼういずは、最初支那事変勃発以前に、人も知る川田義雄を盟主にして創められたが当時としては新様式の舞台が時流に投じて忽ち一世を風靡、これを真似るものが雨後の筍のように族出したものである
 其後坊屋達が新興演芸部に引抜かれてこれが二つに割れて以来、漸く下り坂となり筍組もいつか雲散霧消して、残るものは川田達のミルク・ブラザースと坊屋達のあきれたの二つだけとなった、しかもそのうちミルクの方は去年川田の病気入院のため自然解消して、残るものは坊屋達のあきれた一つだけとなっていたのがその坊屋達も今度新興演芸部との契約満了を機に御時勢にも応じてアッサリ解消の挙に出たもので
 これはこの一団のみならずあきれた・ぼういずに始まる所謂何々ボーイズ時代に完全に終止符を打つ事にもなった訳で、記録的意味を持つものかも知れない
 尚坊屋、山茶花、音楽男、長井隆也のこの一党は、今後は音楽的要素を豊かに盛った新しい劇団を作るべく、メンバー集めにかかっている

東京新聞・1943年4月1日

音と長井はその後もしばらく新興演芸部に残り、舞台公演に参加している。


◆昭和17年〜解散まで・まとめ

【舞台】

1942(昭和17)年1月から1943(昭和18)年4月までの舞台公演をまとめると以下の通り。

あきれたぼういず改め新興快速舞隊
京阪神の劇場巡演スタイルは変わらないが、1942年1月より、神戸での出演劇場が神戸松竹劇場から八千代劇場に変わっている。(「新興演芸お盆大興行」のみ神戸松竹劇場)
また、1943年1月以降、京都公演が京都松竹劇場から京都座に変更。

〈上京公演〉
・浅草松竹座(1回)
・国際劇場(1回)
・新宿大劇場(新宿松竹座)(3回)

国際劇場プログラム・1942年8月13日(20日公演の予告)

川田義雄とミルクブラザース
1942年4月までのわずか4ヶ月の間に、拠点の浅草花月劇場のほか京都や大阪の花月劇場にも多く出演。

〈関西公演〉
・京都花月(2回)
・大阪花月(3回)
・北野劇場(大阪)1ヶ月長期公演
〈特別公演〉
・「吉本名流演芸大会」神戸阪急会館

川田が入院後、岡村・頭山・有木は浅草花月劇場の吉本楽劇隊に参加したと思われる。

京都花月劇場広告/京都日日新聞・1942年3月11日

岡村龍雄
12月に岡村は清水金一一座に特別出演、1943年1月から「笑の王國」に参加。
4月末までの出演劇場は以下の通り。

・金龍館(浅草)…清水金一一座に特別出演
・常盤座(浅草)…笑の王國
・新宿第一劇場…笑の王國

〈単発特別公演〉
・「遺家族慰安奉納演芸大会」九段軍人会館…川田、岡村

益田喜頓
1942年1月、新興演芸部へ戻ってくる前に新宿帝国館で公演している。
新興演芸部へ移籍して以降は、大阪のアシベ劇場・浪花座を拠点に活動。
1943年4月までの出演劇場は確認できたもので以下の通り。

〈主に出演した劇場〉
・アシベ劇場(大阪)※1942年8月頃から「あしべ劇場」表記
・浪花座(大阪)

・京都松竹劇場(1公演のみ)

【レコード】

1942〜43年に発売されたレコードは以下の通り。

あきれたぼういず改メ新興快速舞隊
・民謡紀行(未発売)
・楽しき演芸館
・名人会・寄席の夕(第二号)
・清水一家
・海底物語

「楽しき演芸館」は坊屋・芝・山茶花・音のメンバーでの録音で、芝が参加する最後のレコードとなった。
未発売の「民謡紀行」も同メンバーと思われる。
「名人会・寄席の夕」は演芸系のレコードを6枚組にしたアルバムで、「楽しき演芸館」のA面のみ収録されている。

「清水一家」「海底物語」は芝が抜けて長井隆也が加わった顔触れになっている。

「名人会・寄席の夕」アルバムより、「楽しき演芸館」歌詞カード

川田義雄・岡村龍雄
・かはつたオペラ集

岡村龍雄
・大東亜戦争双六/吾輩は天下のヤブである

ミルクブラザースのレコードはないが、1942年1月には川田・岡村の兄弟による「かはつたオペラ集」を発売。
そしてミルク解散後、岡村が初のソロレコード「大東亜戦争双六/吾輩は天下のヤブである」を出している。

【映画】

グループでの出演作はなし。
1942年に益田が「歌ふ狸御殿」に出演。

「歌ふ狸御殿」広告/東京新聞・1942年10月31日

【参考文献】
『松竹百年史』東京松竹/1996
『近代歌舞伎年表 京都篇』国立劇場近代歌舞伎年表編纂室/1995
『近代歌舞伎年表 大阪篇』国立劇場近代歌舞伎年表編纂室/1994
「東京新聞」/東京新聞社
「京都日日新聞」/京都日日新聞社
「大阪毎日新聞」/大阪毎日新聞社
「ビクター邦楽新譜」/日本ビクター
「テイチクレコード」/帝国蓄音器
CD『楽しき南洋』リーフレット/オフノート・華宙舎/2010


(次回1/28)川田の復帰

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