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(4)川田義雄という人:川田義雄③/あきれたぼういず活動記

(前回のあらすじ)浅草のレヴュー団に参加した川田。
満州まで巡業しタイヘンな思いをして、なんとか帰国した。

▶︎その後の川田の経歴はまた後ほど…
今回は、彼の人物像について考えていきたい。

【イナセなお兄さん】

坊屋三郎は川田について
ちょっとした街のお兄さん的気分でね、つまり、表向きちゃんとしたスタイルで、実はそのワイシャツの下は腹巻だった、みたいな感じね
ドサ廻りの苦労がそうさせたのか、江戸っ子にしてはなかなか計算がコマかかったナ
と語る。(『広告批評』1992年10月号)

あきれたぼういずとともに浅草花月劇場の舞台に立っていたダンサー・中川三郎も、著書『踊らんかな、人生!』の中で川田について綴っており、彼らしい的確な人物評である。

 その頃の彼は、洋服を着たイナセな江戸っ子といった風であった。だがよく気をつけてみると、左足にわずかに昔の負傷のあとをとどめ、ひきずるような歩き方をしていた。

 ここまでにいたるには、彼は苦労につぐ苦労を重ねていたが、意外にも人柄は明るく開放的であった。そして本能のように、時代に即応して芸をきり開いてゆく感覚を身につけていた。

中川三郎/『踊らんかな、人生!』

【情に厚く、感性は広い】

川田はデビュー当時世話になったカワベキミオを「師」と慕い続けており、
「ジャズ・オブ・トーキョー」の解散から約8年後の都新聞企画「此の弟子・此の師」(1940年7月26日)ではカワベが
「彼があんなにエラくなった今日も、この僕を昔と変らぬ先生扱いで、こちらがテレる事がある位です」
と語っている。

人気絶頂の頃、劇場の立て看板に「川田義雄」の名前が先輩の柳家三亀松より大きく書かれているのを見た川田は、
「すぐ直させます」と三亀松に謝りに行ったというエピソードもある。(都新聞・1940年6月29日)
上下関係や義理人情を大切にする人柄も江戸っ子らしい。

また、それでいて川田は国境を越えた、ボーダーレスな感覚の持ち主であった。
日中戦争ただ中の昭和15年に発売された「ドレミファ物語」(ビクターレコード)の中で、
海の彼方の音楽と我が国古来の音楽と三味線ピアノと異なれどドレミファ変わりがあるものか
と歌っているのには、驚かされる。

【驚異的歌手】

中川三郎は川田の歌手としての才能にも驚嘆している。
浅草花月劇場で初めて川田の歌を聴いた衝撃を、こう記している。

 浪曲師と艶歌師とオペレッタ歌手の三人をつきまぜたような発声法と声音と不敵な舞台度胸に大いにびっくりさせられた。こんなたいへんな野郎と、これから一緒の舞台で働くのか! こんな歌手ってあるものだろうか?

中川三郎/『踊らんかな、人生!』

 都新聞では、そんな川田の歌声を「七色の声を持つ」と表現している。
また、小説家・評論家の橋本治は1991(平成3)年に行われた「江戸東京自由大学」の講義の中で、

 …戦前の歌手の中では一番うまい歌手だと私は思ってます。新内に代表されるような伸びのある美声と、スィングジャズに代表されるモダンなリズム感を同時に持っていて、ここに笑いという流暢な言語感覚が入った。戦前の一番うまい歌手というよりも、この人が唯一の歌手だったと言ったほうがいいかもしれない。

橋本治『音符の上に声がある』/『広告批評』1992年10月号

とまで言っている。
時代を超えてなお色褪せない歌声、ということか。

洒落た背広をスマートに着こなしながらも、
あくまでも浅草スタイル、六区ムードに徹し
浅草式下素っぽさという山ノ手人種の批評などクソくらえの気概と風格を堂々と売りこんでいた」(『踊らんかな、人生!』)
という川田は、浅草的で庶民的なフィーリングとボーダーレスな感性、
古き良き日本趣味と最先端の洋風スタイルを併せ持つ不思議な存在であった。

古今東西の芸をごった煮にしてしまうあきれたぼういずの感覚は、彼なしではあり得なかっただろう。


【参考文献】
『これはマジメな喜劇でス』坊屋三郎/博美舘出版/1990
『踊らんかな、人生!』中川三郎/学習研究社/1964
『広告批評』1992年10月号/マドラ出版
「此の弟子・此の師」都新聞1940年7月26日/都新聞社
「演芸一皿料理・くさやの臭さ」都新聞1940年6月29日/都新聞社


▶︎(3/5UP予定)益田喜頓の生い立ち

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