(41)ミルク・ブラザース結成!/あきれたぼういず活動記
(前回のあらすじ)
新興キネマ演芸部で再始動した第2次あきれたぼういずは昭和14年4月末、京都松竹劇場で旗上げ公演。これからの活躍に期待が寄せられた。
※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!
【川田義雄の再始動】
一方で、吉本に一人残された川田の再始動はかなり遅かった。
川田の性格を思えば、一刻も早く舞台に立ちたくてたまらなかっただろう。
「“あきれた”が京都で旗上げすることが判っていたから、それより先にやりたかった」とも語っている(『漫然と語る会(上)』京都日日新聞/1942年4月8日)。
しかしそれ以上に、チームメイトに裏切られたとの思いの強い彼は、メンバー探しにかなり慎重だった。
彼が新メンバーを選ぶ際にこだわったのは、楽器の腕が立ち、リーダーとしての苦労を知っていて、腹の明るい人間、という3点であった。
やがて集まったメンバーは、
これまでも共に浅草花月劇場の舞台に立っていた弟の岡村龍雄(ギターと歌)、
法政大学を卒業後ダンスホールのバンドマスターをやっていた頭山光(バイオリン)、
東京高等音楽学院出身の菅井太郎(アコーディオン)の三人。
のちに菅井が抜けて代わりに有木三多が参加するが、彼もダンスホールのバンドマスターだった。
頭山の応召や母親の死去なども重なって、初演はかなり遅れてしまった。
ようやく舞台にお目見えしたのは1939年5月31日。
第2次あきれたぼういずの初演から一ヶ月、引き抜き騒動で姿を消してから二ヶ月経っていた。
ただ、舞台復帰よりも先に、レコードのほうはソロで早くから吹き込んでおり、
あきれたぼういず、オリジナルメンバーでの最後のレコード「嘘くらべ」(6月新譜)発売の翌月には川田初のソロレコード「ハナに恨みは」(7月新譜)がリリースされている。
また、引き抜き騒動が起きる以前、3月のうちから企画されていた「中川三郎ハタアズ楽団公演会」(日比谷公会堂・5月12日)には当初あきれたぼういずが特別出演する予定だったが、結局川田のみで参加、司会を務めている。
当時の新聞・雑誌の表現を借りるなら「雨後の筍のごとく」続々と登場してきた後発のボーイズたちとともに、元祖たる四人も「第二次あきれたぼういず」「ミルク・ブラザース」として再出発、互いにしのぎを削り合うこととなった。
【芸名由来】
メンバーも増えたので、ここで名前の由来&ミルクのメンバーの紹介を。
山茶花究
掛け算九九の「三三が九」のもじり。
その前の芸名が「加川久(かがわひさし)」だが、このときから「キュウちゃん」などと呼ばれていたのかもしれない。
あきれたぼういずでは最年少だが、その只者でなさそうな風格がそうさせるのか「究さん」とさん付けで呼ばれていることが多い。
ミルク・ブラザース
アメリカのコーラスグループ「ミルス・ブラザース」のもじりでもあり、日本語にすると「乳兄弟」になるというダブルミーニング。
川田・岡村の兄弟がメインで活躍していたのだろう。
岡村龍雄
おかむら たつお
本名:岡村隆吉 1913年3月5日生まれ
愛称が「りゅうやん」だったようなのでそこから「龍」の字を入れたのだろうか。
川田は記事などで「おい、弟」「弟がいねぇな」と「弟」呼びしている。
先述のように大阪の「陽気な一座」で山茶花らとともに活動し、その後浅草花月劇場の吉本ショウへ参加、あきれたぼういずと同じ舞台でともに活躍していた。
担当はギターと歌。
川田が高音、岡村が低音を受け持ち、二人で歌や掛け合いをやっている。
あきれたぼういずでは坊屋が担当していた川田のギター浪曲の「合いの手」も受け持つ。
頭山光
とうやま ひかる
本名:小橋吉一
頭の薄いことから、頭山満をもじっての名前。愛称は「ハゲちゃん」。
法政大学卒業後、銀座のダンスホールでバンドマスターをしていたそうだ。
生年不明。ただ、1939年で29歳とのことなので、数え年だとすると1911年生まれだろうか。
ミルク・ブラザースで活躍中にも、日々忙しい舞台の合間を縫ってヴァイオリニスト・小野アンナの元へ稽古に通っていたという勤勉家だ。
ヴァイオリン担当でレコードではあまり目立たないが、舞台では飄々とした持ち味だったようだ。
都新聞の演芸コラムでも、主にハゲネタでちょくちょく登場している。
菅井太郎
すがい たろう
「すごいだろう」のもじり。
銀座のキャバレー美松のバンドにいたこともあるらしい。
本名がわからず、数ヶ月で抜けてしまったため詳しいプロフィールはわからない。
有木と交代する際の都新聞記事(1939年8月26日)には、「レコードの方に行く事になった」とあり、レコード業界へ転身したようだ。
有木三多
ありき さんた
本名:野口清 1914年2月23日生まれ。
「アレキサンダー」のもじり。
これは「アレキサンダー・ラグタイム・バンド」からとっているそうだ。
のちに「三多」の表記を「山太」に変えている。
愛称は「サンちゃん」。川田のことは「親方」と呼んでいる様子。
甥の仲代達矢によれば、「母の異父弟となるこの叔父は神学校に進学したが、ピアノがとてもうまかったので芸能界に入ってしまったという変わり種だ」とのこと。(『遺し書き』)
ミルク加入前は和泉橋舞踏場のバンドにいたようだ。(都新聞/1939年8月26日)
アコーディオン担当だが、剽軽なキャラクターと甘い歌声で活躍する場面も。
【参考文献】
『著作権者名簿 訂4版』日本放送協会/1942
『キネマ旬報』1979年10月23日号/キネマ旬報社
『遺し書き』仲代達矢/主婦と生活社/2001
CD『楽しき南洋』リーフレット/オフノート・華宙舎/2010
「ザツオン・ブラザース ミルク・ブラザースヂャズ談会」/『東宝映画』 1939年7月号/東宝映画社
「僕の楽屋噺:ミルクブラザースとは?」森田菊夫/『台湾芸術新報』1940年8月号/台湾芸術新報社
「都新聞」/都新聞社
「京都日日新聞」/京都日日新聞社
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