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(46)昭和15年まとめ/あきれたぼういず活動記

前回のあらすじ)
「七・七禁令」以降、ボーイズへの締め付けは厳しくなる一方だった。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

▶︎今回は1940(昭和15)年全体のざっくりまとめ。


【舞台】

一年間の舞台公演をまとめると以下の通り。

あきれたぼういず
基本的には昨年に引き続き、京都松竹劇場、浪花座、神戸松竹劇場を巡演している。このほか南座(京都)や大阪劇場、姫路山陽座にも出演。

 (東京公演)
・浅草松竹座(10回)
・国際劇場(1回)
・新橋演舞場(1回)
※プログラム替りでの連続公演は替りごとにカウント。ひと月続けての公演=3回分もあり
 (単発特別公演)
・一ツ橋共立講堂「一流名人大会」
・よみうり遊園アトラクション
・甲子園球場「新興演芸部野外演芸大会」

京都を長く留守にすることもしばしば。
代わりに神戸や大阪、そして浅草松竹座での公演が増えている。

都新聞・1940年5月11日

この他、6月には北海道公演の計画があったが中止に。
道産子揃いのあきれたぼういず、錦を飾り損ねてさぞやがっかりしたことだろう。

さらに7月には、設立したばかりの「満洲演芸協会」が招聘芸人第一号としてあきれたぼういずを指名。
ところが新興側が提示した契約金3万円という金額がネックになり、折合いがつかず立ち消えになってしまった。
しかしこれが、四人には思わぬ贈り物に。

 黄金の夢破る
 大枚三万円の折合いがつかなくて、満洲演芸協会の手での満洲行の件がオヂャンになったあきれた・ぼういずの連中、来月の国際劇場出演を前にして、思いがけない一週間の休暇に恵まれ、紀州白浜温泉行と洒落る、そして揃って湯に浸りながら、三万円の夢は破れたりと雖も我等ここに七八年振りに夏休みというものを得たりとノンビリ

都新聞・1940年7月29日

川田義雄とミルクブラザース
ホームは浅草花月劇場。

 (浅草花月以外での公演)
・京都花月劇場(6回)
・北野劇場(1回)川田単独
・神戸花月劇場(1回)
・日本劇場「四人の電撃兵」(1回)
 (単発特別公演)
・日比谷公会堂「長谷川一夫映画と実演の会」
・日比谷公会堂「日本ビクター実演大会」川田単独
・後楽園球場アトラクション
・有楽座「吉本爆笑実演大会」「金語楼劇団第2回公演」「同・第3回公演」
・東京宝塚劇場「吉本芸道大会」
・横浜二の谷海水浴場アトラクション

都新聞・1940年6月12日

1月に京都、4月に神戸へ初進出。
京都公演が多く、そのぶん浅草花月を留守にしている印象が強い。
また、本公演と並行して単発のイベント公演も多く、その忙しさがわかる。
川田にも夏休みを与えてほしいところ……。

【レコード】

この年の1月、都新聞にレコード業界全体の様子をまとめた記事が出ている。
これによれば「物資欠乏と検閲強化の渦の中で、…(中略)…二月から新譜が各社共すっかり減ってしまった」とのことである。
そんな中、「検閲がやんやと怒鳴っても、ぢゃんぢゃん売れてゆくのは、あきれた・ぼういず式のもの」だそうで、依然ボーイズ人気の強いことが窺える。(都新聞・1940年1月21日)

また「七・七禁令」のジャズ規制の中にあって変わらず売れ続けているのが浪曲系のレコード。
浪曲的要素と、ジャズ的味わいとを兼ね備えた川田のギター浪曲ものは検閲と大衆の需要と両方にうまく応えてヒットし続けている。

 ビクターは川田義雄のものが偉らく売れている、雲月を入れてビクターは正に此二人で喰っているような観がある、但し川田のレコードのファンは半分以上は男性である為に思った程ベラ棒ではないようだ…

都新聞・1940年4月15日

あきれたぼういずは四人のキャラクターも固まり、オリジナル時代とは違ったスタイルを確立している。
「動き」を武器とした彼らの魅力はレコードからは感じ取りにくい面もあるが、漫才的なやり取りや情景スケッチ的なコントが秀逸である。

川田は、ミルクブラザースとしての最初のレコード「ドレミファ物語」を発売。
並行して、ソロのレコードも引き続き吹き込んでいる。

1年間で発売したレコードは以下の通り。

あきれたぼういず
・銃後のコーラス
・想ひ出の映畫集
・さくら変奏曲
・あきれた數へ唄
・ハワイよいとこ
・スポーツ會議
・當世かわつたネ節/スパイ御用だ
(計7枚)

川田義雄とミルクブラザース
・歌ひ初め(川田ほか)
・浮草劇場/男ざかり(川田)
・大政小政/かはッた活辯(川田)
・袖珍ラジオ版/踊る電話口(川田)
・ドレミファ物語(ミルク)
・地球の上に朝が来る(ミルク)
・バナナ物語/一心太助(川田)
・かはッた數へ唄/赤城山ブルース(ミルク/川田)
・オメメ物語(川田)
・新版桃太郎(ミルク)
(計10枚)

舞台やラジオの仕事を知ると、そこからレコードに持ってきたらしいネタも多く想像がふくらむ。

「地球の上に朝が来る」歌詞カード

【ラジオ】

ラジオは両者、張り合うように放送。
出演する月が被ることが多いのはどういうわけだろう。
「七・七禁令」以降しばらく出演がなかったが、12月には再び登場している。

・2月10日「マイクロフォン協奏曲」(浪花座より)あきれた
・3月9日「春の銃後だより」ミルク
・5月10日「アンテナは笑う」あきれた、ハットボンボンズ
・5月12日「変った慰問袋」ミルク
・6月24日「新版桃太郎」ミルク
・12月7日「前線将士に送る夕」川田
・12月9日「ラジオ小咄・明るい一日」あきれたほか

アンテナは笑う」は同じ新興演芸部の六人組コミック楽団・ハットボンボンズと共演、竹田新太郎と淀橋太郎の作である。
BK(大阪放送局)からの放送はこれまでにもやっていたが、AK(東京放送局)の放送はこれが初とのこと。
内容はレコードでいうと「あきれた数へ唄」や「珍勧進帳」に近いが、合間合間にハットボンボンズのネタも挟んで流れを持たせてある。

新版桃太郎」は同名のレコードの原型となった作だが、放送版は最後に物語を聴いていた子ども(有木)が「鬼共は涙を流して降参しました、そして降参の印にガソリンやマッチ、お砂糖、報国債券など沢山宝物をあげたんでしょう」という時事諷刺の効いたセリフでオチとなる。
このときの放送料を四人は都新聞に献金した旨が報じられている。
当時、新聞社主催の国防献金がさかんに行われていた。

都新聞・1940年6月27日

ラジオ小咄・明るい一日」は淀橋太郎の作で、ラジオ欄のプログラムを見てみるとなかなか面白そうな作品だが、レコードにはなっていない。

 (一)出勤の巻
夫(芝利英)妻(堺真澄)勝手口の訪問者(益田喜頓)合唱(全員)
朝の出勤時間がせまって、妻君に起こされた会社員、遅刻しては一大事とあわてふためくギャグと笑い
 (二)勤務の巻
唄(芝利英)課長(益田喜頓)社員一(山茶花究)社員二(坊屋三郎)社員三(芝利英)女事務員(谷百合子)女給仕(水木蘭子)
素晴らしい暗算が達者で、計算は勿論、電話番号迄すっかり誦じていると云う数字課長だが、たった一つ忘れていたものがあった
 (三)昼休の巻
唄(益田喜頓)男社員(坊屋三郎)女社員(櫻丘千紗子)
昼の休みに屋上へ出た男社員と女社員の会話は、最後の一節へ来て飛んだ喰い違いとなる
 (四)家庭の巻
唄と夫(山茶花究)唄と妻(竹久よしみ)
風呂へ入って夕食をすませた夫、夕刊の将棋を研究しようとするとその個所が切抜いてある、妻は連載小説の切抜きをスクラップしているので、無理に糊をはがして、さてやっと見つけた将棋の欄は?
 (五)演芸の巻
坊屋、山茶花、芝、益田とずらりと列べた四人の最も得意とする歌とギャグ、淀橋太郎の構成と高木益美の作曲編曲が織り出す「明るい一日」の終幕

都新聞ラジオ欄・1940年12月9日

サラリーマンが朝、出勤してから仕事を終えて帰宅するまでの一日を、主役を順に入れ替えながら4つのコントで見せるという構成が面白い。
オチまで書いてくれていないので、なんとも気になるところだ。

【映画】

あきれたぼういずは松竹「弥次喜多怪談道中」に出演したのみ。

一方、川田は東宝「ロッパの新婚旅行」「親子鯨」に出演したほか、2本目の主演映画「ハモニカ小僧」も撮影。
そして「明朗五人男」では、エンタツ・アチャコや柳家金語楼といった吉本の大スター達と「五人男」として肩を並べている。

あきれたぼういず
「弥次喜多怪談道中」

川田義雄とミルクブラザース
「ロッパの新婚旅行」※柳家金語楼が出演できず、急遽代演。
「ハモニカ小僧」(主演)
「明朗五人男」
「親子鯨」

吉本と東宝がタッグを組んだことも大きいが、川田の躍進ぶりが素晴らしい。

左上4人があきれたぼういず/都新聞・1940年7月12日

【都新聞の連載】

「都新聞」演芸欄の連載読み物には、川田・坊屋が一緒に2回登場。

①「喜劇人爆笑カルタ会」
1月1日〜6日まで全5回連載のお正月企画。
喜劇人が大集合して東西カルタ対決を繰り広げるというもので、メンバーはかなり豪華。

 東軍:古川緑波、花菱アチャコ、曾我廼家五郎、柳家金語楼、大辻司郎、杉狂児、川田義雄、曾我廼家十吾、飯田蝶子
 西軍:岸井明、高勢実乗、石田一松、横山エンタツ、徳川夢声、桂小文治、坊屋三郎、榎本健一、ミス・ワカナ

ただし写真はなくイラスト挿絵のみで、また、『古川ロッパ昭和日記』にはとくに記録がない。
「そういう設定の創作読み物」ではないかと思う。

読み札を読む際には、川田は浪曲調になったり、坊屋は普段マイクを掴んで歌うクセが出て床の間の柱にしがみついたり……と、芸人それぞれのキャラクターが表れているのが面白い。
取った札は気に入ったら懐に入れちゃったり、ときにはカルタそっちのけでミカンばかり食べて雑談していたり、なんともおおらかで愉快なカルタ会である。

「喜劇人爆笑カルタ会」第①回挿絵(加東みの助・筆)/都新聞・1940年1月1日

②「明朗ユーモア座談会」
8月16日から9月2日まで全16回のボリュームたっぷりな連載企画。
速記整理に手間取って掲載が遅れたそうで、座談会の開催自体は1週間程前、日比谷の中国料理店・山水楼にて午後1時から。

 出席メンバー:柳家金語楼、川田義雄、坊屋三郎、永田キング、玉松ワカナ、清川虹子(+都新聞・日色記者)

新興演芸部の上京公演を機会に、東西の芸人達が語り合っているが、自身の経歴や引抜き騒動についても話していて興味深い。
noteでもたびたび引用している。
川田が「4時からフミちゃん(=妻の櫻文子)と日東コーナーハウスで会う約束だから」と退散すると、それじゃあみんなで邪魔をしにいってやろうと、座談会もおひらきに。

「明朗ユーモア座談会」第①回掲載写真(左から金語楼、川田、キング、坊屋、ワカナ)
/都新聞・1940年8月16日

【参考文献】
『松竹百年史』東京松竹/1996
『近代歌舞伎年表 京都篇』国立劇場近代歌舞伎年表編纂室/1995
『近代歌舞伎年表 大阪篇』国立劇場近代歌舞伎年表編纂室/1994
『古川ロッパ昭和日記:戦前篇』古川ロッパ/晶文社/1987
「都新聞」/都新聞社
「京都日日新聞」/京都日日新聞社
「神戸新聞」/神戸新聞社


(次回12/24)グループの危機!?昭和16年

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