(60)絶望からの再起/あきれたぼういず活動記
(前回までのあらすじ)
1946(昭和21)年夏、あきれたぼういずが再結成し活躍していく一方で、川田義雄は脊椎カリエスと腎臓結核に苦しめられ、再起は絶望的とまでいわれていた。
※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!
【川田の再起】
脊髄カリエスと腎臓結核で苦しんでいた川田だが、その精神力で奇跡的に再起、舞台に復帰することとなった。
東京新聞社の記者だった尾崎宏次は、この頃理不尽なレッド・パージ(占領下の日本において、共産党の支持者だとした人々を解雇した動き)に巻き込まれて腐っていたとき、復帰まもない川田と会った。
1月26日から横浜国際劇場で復帰公演を行い、その後しばらく、同劇場に出演している。
まだ決して全快とはいえない状態だが、尾崎も書いている通り、舞台にかける熱い精神力で再起したように思える。
少年時代にも病院に行かず六区に通い詰めていたという川田にとって、舞台に触れていることが一番の精神的療養なのだろう。
【美空ひばりとの出会い】
そして5月の横浜国際劇場公演。
小唄勝太郎の前座として登場した少女が、笠置シヅ子の「セコハン娘」を歌った。
その歌声に川田は、ただならぬ才能を感じ取る。
美空ひばりとの出会いである。
美空ひばり(本名:加藤和枝)が横浜で生まれたのは、1937(昭和12)年5月29日。
そう、浅草であきれたぼういずが誕生したのとほぼ同時である。
8歳で初舞台を踏み、9歳のとき『素人のど自慢』に出場したが、「うまいが子供らしくない」と不合格に。
なかなか実力が認められず、まだ無名の少女だった。
彼女の才能を見抜き、売り出し、支えたのが川田だった。
二人の歌声を比較すると、音程の取り方から節回しまでほとんど同じだという。
【ダイナ・ブラザース結成】
また、療養中から、川田を慕って若い芸人達が自宅に集まっていた。
彼らの中からやがて、「ダイナ・ブラザース」が誕生し、以降「川田晴久とダイナ・ブラザース」として舞台やラジオで共に活躍するようになる。
ひばりが出演した5月の国際劇場で、すでに結成まもないダイナ・ブラザースが川田とともに登場したようだ。
その後8月の新潟吉田劇場で灘サダヲ・小島タカミツ・鹿島ミツヲによる「ダイナ・ブラザース」が川田と共にステージに立っている。
芸名はのちに灘康次(電気ギター)、サイドギターの鹿島利之(サイドギター)、アコーディオンの小島宏之(アコーディオン)となる。
【有木山太の復員】
1948(昭和23)年2月8日、復帰まもない川田が参加したラジオ放送「お好み演芸・かわった花咲爺」。
この放送で、元ミルクブラザースの有木山太が久しぶりで声を聴かせている。
ようやくシベリヤから復員してきたのだ。
東京新聞で確認できるものでは、5月18日から30日まで日劇で開催された、新東宝独立記念ショウ「スタァ・パラダイス」の出演メンバーに名前がある。
益田や川田も出演している。
バンドマンに戻った頭山に対し、有木はコメディアンとして活動していく道を選んだようだ。
7月にショウ製作プロダクションとして設立された「東京ミュージカル・ショウ・プロダクション」の第一回公演(日劇小劇場「パリ祭」)に参加したり、
翌1949(昭和24)年3月にはレヴュー団「東宝アトミックショウ」の旗上げ(これも日劇小劇場)に参加するなど、新鋭の音楽ショウで意欲的に活動している。
有木の甥(姉の息子)である仲代達矢はこの頃、アルバイトで有木の付き人をして、アコーディオンを運んでいたそうだ。
当時はまだ学生だったが、1952(昭和27)年には俳優座養成所へ入り、1954(昭和29)年の映画『七人の侍』にエキストラ出演してデビューしている。
1956(昭和31)年の実写映画版『サザエさん』ではノリスケ役の仲代と、流しの歌手として顔を出す有木の共演が観られる。
【晴れて久しく永遠に】
1949(昭和24)年2月、川田は芸名を「川田晴久」に改める。
療養中の治療で世話になっていた林泉寺の老師の知り合いに姓名判断をしてもらったそうだ。
舞台に復帰してから約一年、美空ひばりとの出会いやダイナ・ブラザースの結成もあり、改名で心機一転だ。
「晴久」は「晴れて久しく永遠に」との思いが込められている。
2月17日からの日劇「スヰング狂燥曲」が、改名後最初の出演となった。
有木山太も共演している。
【参考文献】
『川田晴久読本』池内紀ほか/中央公論新社/2003
『完本 美空ひばり』竹中労/筑摩書房/2005
『遺し書き』仲代達矢/主婦と生活社/2001
「アメリカ人の乱暴」尾崎宏次/『芸能』1959年5月号/芸能発行所
東京新聞/東京新聞社
神奈川新聞/神奈川新聞社
(次回3/31)川田の渡米