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(60)絶望からの再起/あきれたぼういず活動記

前回までのあらすじ)
1946(昭和21)年夏、あきれたぼういずが再結成し活躍していく一方で、川田義雄は脊椎カリエスと腎臓結核に苦しめられ、再起は絶望的とまでいわれていた。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

【川田の再起】

 絶望の病生活から再起
 信仰の力で生きた川田義雄

去年の夏、日劇の「銀座千一夜」に出演したのを最後に持病のせきずいカリエスで倒れてしまった川田義雄は一時悪化して再起絶望とも伝えられていたが、静養のかいがあって昨今めっきり回復し、来年早々新設の大泉スタジオで一本映画に出演することになった…

東京新聞・1947年12月5日

脊髄カリエスと腎臓結核で苦しんでいた川田だが、その精神力で奇跡的に再起、舞台に復帰することとなった。

東京新聞社の記者だった尾崎宏次は、この頃理不尽なレッド・パージ(占領下の日本において、共産党の支持者だとした人々を解雇した動き)に巻き込まれて腐っていたとき、復帰まもない川田と会った。

 そんな日々がつづいているなかで、川田晴久に銀座で会って、話しこんだ二、三十分が忘れがたいのである。かれはカリエスで絶望視されていたのを、ここまで回復した努力に、私は愕然としていた。川田はそのとき、例の早口で、闘病生活の足どりを話した。かれは近代医学に見放されると、あらゆる漢方治療だとか、精神修養もした。さいごには、たしか名古屋のほうへいって、寺にこもって、修行もした。それでも快方に向わないので、しまいには自分の信仰をつくりだしたと言った。
 「自分でつくった信仰って?」
 「太陽ですよ。太陽を拝むんです。太陽を信じるんです。ぼくはそれで直ったんだ。」
 私はしばらくあっけにとられて、近代医学がサジを投げた病気が、そんなことで直るとは思えなかったが、現に目の前にいる川田晴久のぴちぴちした顔を見ていると、病気はなおっていないのだが、彼の精神力が、肉体を維持させているのだ、と、まあ、陽気に自分に言いきかせるよりほかなかった。

尾崎宏次「アメリカ人の乱暴」/『芸能』1959年5月号

1月26日から横浜国際劇場で復帰公演を行い、その後しばらく、同劇場に出演している。

神奈川新聞・1948年1月24日

川田義雄復活
 一昨年夏日劇出演以来セキズイカリエスで療養中だった川田義雄が二十六日から一週間横浜国際劇場に岡晴夫、サンタフェショウと合同出演し、二年ぶりで舞台に返り咲く
 川田は下半身不随同然なので、公演中は楽屋に寝泊りし、大道具特製の手押し車に乗って舞台に出演する

東京新聞・1948年1月22日

まだ決して全快とはいえない状態だが、尾崎も書いている通り、舞台にかける熱い精神力で再起したように思える。
少年時代にも病院に行かず六区に通い詰めていたという川田にとって、舞台に触れていることが一番の精神的療養なのだろう。

【美空ひばりとの出会い】

そして5月の横浜国際劇場公演。
小唄勝太郎の前座として登場した少女が、笠置シヅ子の「セコハン娘」を歌った。
その歌声に川田は、ただならぬ才能を感じ取る。

美空ひばりとの出会いである。

 川田とひばりが、はじめて会ったのは、一九四八年九月、小唄勝太郎の前唄でデビューして間もないころの横浜国際劇場である。たまたま同じショーに出て『セコハン娘』を歌っているのを、川田が耳にとめた。わざわざ楽屋をたずねて、喜美枝さんにこういった。
「お宅のお嬢ちゃんは、かならず一流の歌い手になれる子ですよ。自分のフシを持っているから、個性をのばしてやればきっとモノになる。しばらく私にあずけてみませんか……」

竹中労『完本 美空ひばり』

美空ひばり(本名:加藤和枝)が横浜で生まれたのは、1937(昭和12)年5月29日。
そう、浅草であきれたぼういずが誕生したのとほぼ同時である。

8歳で初舞台を踏み、9歳のとき『素人のど自慢』に出場したが、「うまいが子供らしくない」と不合格に。
なかなか実力が認められず、まだ無名の少女だった。

彼女の才能を見抜き、売り出し、支えたのが川田だった。
二人の歌声を比較すると、音程の取り方から節回しまでほとんど同じだという。

 それから川田は、地方巡業に必ずひばりを一枚加えてくれた。もちろん芸人としてのランクは横綱と幕下ほどちがっていたが、興行師に自分と同じ大きさの看板をかけさせ、「天才少女・美空ひばり」と大々的に宣伝した。伴淳三郎を仲介にして「新風ショウ」の岡田恵吉のオーディションをうけさせたのも、初出演の映画『のど自慢狂時代』に売りこんでくれたのも、川田であった。
…(中略)…
 その川田ぶしは、いまもひばりの歌の心に生きつづけている。彼女が追憶の中で先生をつけて呼ぶのは、川田晴久だけである。
「私のお師匠さんといえるのは、いちばんはじめにお父さん。そして川田先生、その後はない……」

竹中労『完本 美空ひばり』

【ダイナ・ブラザース結成】

また、療養中から、川田を慕って若い芸人達が自宅に集まっていた。
彼らの中からやがて、「ダイナ・ブラザース」が誕生し、以降「川田晴久とダイナ・ブラザース」として舞台やラジオで共に活躍するようになる。

ひばりが出演した5月の国際劇場で、すでに結成まもないダイナ・ブラザースが川田とともに登場したようだ。
その後8月の新潟吉田劇場で灘サダヲ・小島タカミツ・鹿島ミツヲによる「ダイナ・ブラザース」が川田と共にステージに立っている。
芸名はのちに灘康次(電気ギター)、サイドギターの鹿島利之(サイドギター)、アコーディオンの小島宏之(アコーディオン)となる。

『川田晴久歌謡集』より、ダイナ・ブラザースのメンバー達と川田

【有木山太の復員】

1948(昭和23)年2月8日、復帰まもない川田が参加したラジオ放送「お好み演芸・かわった花咲爺」。
この放送で、元ミルクブラザースの有木山太が久しぶりで声を聴かせている。
ようやくシベリヤから復員してきたのだ。

東京新聞で確認できるものでは、5月18日から30日まで日劇で開催された、新東宝独立記念ショウ「スタァ・パラダイス」の出演メンバーに名前がある。
益田や川田も出演している。

日劇「スタア・パラダイス」広告/東京新聞・1948年5月22日

バンドマンに戻った頭山に対し、有木はコメディアンとして活動していく道を選んだようだ。

7月にショウ製作プロダクションとして設立された「東京ミュージカル・ショウ・プロダクション」の第一回公演(日劇小劇場「パリ祭」)に参加したり、
翌1949(昭和24)年3月にはレヴュー団「東宝アトミックショウ」の旗上げ(これも日劇小劇場)に参加するなど、新鋭の音楽ショウで意欲的に活動している。

有木の甥(姉の息子)である仲代達矢はこの頃、アルバイトで有木の付き人をして、アコーディオンを運んでいたそうだ。
当時はまだ学生だったが、1952(昭和27)年には俳優座養成所へ入り、1954(昭和29)年の映画『七人の侍』にエキストラ出演してデビューしている。

 私は「山太叔父」と呼んで慕い、アルバイトでお付きをしたこともある。有楽町にあった日劇ミュージックホールには、この叔父について何度も行った。
 そこでは『額縁ショー』という、上半身ヌードの女性が額縁の中に入ってじっとしているだけの他愛のないショーをやっていて、有木山太はショーの合間にアコーディオンを演奏しながら漫談し、客の笑いを取っていた。
 その時、芸能界に入ったらと声をかけられたが、その華やかさが自分にはそぐわず、心は動かされなかった。
…(中略)…
 結果的には弟は歌手、私は俳優になった。今思うと山太叔父の存在が少なからず二人に影響していたのだと思う。

仲代達矢『遺し書き』

1956(昭和31)年の実写映画版『サザエさん』ではノリスケ役の仲代と、流しの歌手として顔を出す有木の共演が観られる。

【晴れて久しく永遠に】

1949(昭和24)年2月、川田は芸名を「川田晴久」に改める。
療養中の治療で世話になっていた林泉寺の老師の知り合いに姓名判断をしてもらったそうだ。

舞台に復帰してから約一年、美空ひばりとの出会いやダイナ・ブラザースの結成もあり、改名で心機一転だ。
「晴久」は「晴れて久しく永遠に」との思いが込められている。

 川田義雄が改名

川田義雄が先月巡業先の浜松で姓名判断をみてもらったら「名前を変えないと二年後に又大病をして今度はいのちを取られる」とおどかされ、びっくりして「川田晴久」と改名、十七日初日の日劇出演からこの新藝名を名乗ることになった、当の川田は「晴久なんていやな名前だが病気はもうこりごりなので」といっているが、さすがはカワッタ浪曲の川田で藝名までカワッタというわけ

東京新聞・1949年2月10日

2月17日からの日劇「スヰング狂燥曲」が、改名後最初の出演となった。
有木山太も共演している。

日劇「スヰング狂燥曲」広告/東京新聞・1949年2月15日

 終景に川田晴久(旧名義雄)が久しぶりで登場、流石に藝人に徹した気力をみせている――が、今後は同じフウシでも、浪曲的な感傷プラス政治批判、という特売品をつくって欲しい

東京新聞・1949年2月22日

【参考文献】
『川田晴久読本』池内紀ほか/中央公論新社/2003
『完本 美空ひばり』竹中労/筑摩書房/2005
『遺し書き』仲代達矢/主婦と生活社/2001
「アメリカ人の乱暴」尾崎宏次/『芸能』1959年5月号/芸能発行所
東京新聞/東京新聞社
神奈川新聞/神奈川新聞社


(次回3/31)川田の渡米

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