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(42)模索・昭和14年①/あきれたぼういず活動記

前回のあらすじ)
引抜き騒動もようやく解決。新たなメンバーも加わり、「第2次あきれたぼういず」「川田義雄とミルク・ブラザース」としてそれぞれ再始動、久々に舞台に姿を現した。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

 ミルク・ブラザースからザツオン・ブラザース、ハリキリ・ボーイズからあわてた・バンド、さてはガサツ・ボーイズから何から何と、随分と彼のあきれた・ぼういず擬いヴォードビル団が出来たが、さてそのどれもどれもが、あきれた・ぼういずの形式を、イヤ内容までも殆ど一歩も出ていないのはどうしたものか、いくら日本人は真似や模倣のうまい人種だって、旧い高座芸術と違って、近代人に呼びかけようという新形式の舞台芸術を漁る人間までが、こんなイージーな気持でどうするか、しっかりしろ(あきれた客)

月曜壇場/都新聞・1939年7月3日

浅草に残った川田のミルクブラザース、一方関西へ移った坊屋達の第2次あきれたぼういずは、ここからライバルとして競り合いながら活動していくこととなる。

今回は、1939(昭和14)年後半、再始動後の彼らの活躍を見ていこう。

【第2次あきれたぼういず】

坊屋、芝、益田に山茶花を加えた新編成あきれた・ボーイズも、追々と意気が合って、颯爽と歌いまくり、ギャグッてのける

京都の観客にあきれたボーイズをなじませる迄は旧作の再上演もやむを得ない、そのうちに、関西での地盤も出来、山茶花究の呼吸も合って来て、我々をアッと云はす新作を発表するだろう、幸いに彼等四人すこぶる元気で張り切っている

何にしてもこれだけの新鮮さを持った■■を関西でのびのびと育ててやりたい

小倉浩一郎「あきれたボーイズ」/京都日日新聞・1939年7月3日
右から益田、芝、山茶花、坊屋(同記事写真)

あきれたぼういずは1939年4月末からの京都松竹劇場での初公演の後、6月には大阪の角座、7月には神戸松竹劇場で初披露公演を行っている。
神戸では「あきれた商売往来・儲けまショウ」を上演しているが、このとき劇場に押しかけた人々の殺到ぶりは神戸新聞で「松劇の新記録」として報じられている。

 「松劇の新記録」

 一日から松竹劇場で上演中の新興演劇部披露公演は名番組と低料金が一段と人気を煽ってまさに爆発的で二日の日曜の如きは午前九時開場の早朝興行に詰めかけた人だけで無慮実に一千、何しろこの打込み客の長蛇の陣は劇場入口からうねりくねりと曲線を描きながら劇場食堂の横を西へ曲って驚く勿れ新開地――湊川公演間の電車筋まで流れ出たというのだから呆れてものが言えない
 この新開地空前ともいうべき現象に館の連中ど胆を抜かれて整理どころか切符を渡すのが精一杯、そこでお終いには交通巡査が飛び出すという騒ぎ。かくて午前十時満員になったまま、いくら面口で館の連中が断っても雪崩のように客が殺到し到頭夜の十時まで文字通り鮓詰めの状態で同劇場としては勿論、新開地としても未曾有の入場記録だろうという話

「舞台裏捕物帳」/神戸新聞・1939年7月4日
神戸初演広告/神戸新聞・1939年6月30日

以来、不規則ながら京都・大阪・神戸の劇場を巡演。(大阪での出演劇場は途中から浪花座へ変わっている。)
契約当初に約束されていた通り、三都市の劇場を同じプログラムで回るスタイルだ。

新聞の舞台評を見ていくと、舞台を重ねるうちに、徐々に四人の息が合うようになってきていると評価されている。
ただ、オリジナル時代のネタの再利用も多く、また芸風的にもオリジナル時代から脱却できていない点は繰り返し指摘されている。
移籍当初は、坊屋が中心になってネタを自作していたようだ。

吉本時代は、ネタは全員の持ち寄りでも、それを台本にまとめていたのは川田である。
作者として川田が担っていた役割は大きい。
川田を失った今、「この一座に必要なのは、目下のところ、何よりも一人のよき作者である」(小倉浩一郎「あきれたボーイズ」)というのが、批評家達の共通する意見だ。

佐藤  すると、新興へ移ったら、あなた方の希望通りになりましたか?
  なりつつあります。今のところ、創立時代なので、種種、不満だらけですが、着々それも解消しつつあります。
坊屋  たとえば、現在の我々のショウに出ているオール・ジャパン、新興スイング・オーケストラは、日本のショウに出ているバンドでは、最優秀と言える自信があります。それから、ダンシング・チーム。これも優秀なガールスを集めていると思います。それだけでも、随分、いい。

…(中略)…

佐藤  音楽担当の高木益美氏は?
益田  高木さんは、東宝から、サクライ・イス・オルケスタにいて、アルゼンチン・タンゴの研究家であり、又、スイングもの、日本物、作曲、編曲、なんでも出きると云うたいへんな人です。今までは、蔭の仕事ばかりしていたので、名前は売れなかったが、実力は充分持っている人ですよ。
坊屋  ショウのスタッフ紹介はそれぐらいにしておきますが、われわれの今一番の悩みは、あきれた・ぼういずの神経を理解し得る文芸部員が、いないことで、われと思わんものは、どんどん言ってきてほしいですな。

「あきれたぼういず朗らかに語る」/『スタア』1939年7月上旬号

【川田義雄とミルクブラザース】

 あきれた・ぼういずは「新時代」をフンダンに舞台へ撒き散らすことによって異常な注意をひいた

 一たい、川田は作者と演出者を兼て、あきれた・ぼういずを主宰して来たのだから、ここで飽迄も諷刺とギャグをフンダンに脳味噌から搾り出さなくては沽券に拘る
 ああいう、浅草の持つ艶歌詩人的芸人川田義雄は、ボードビル勃興の先駆者として、欠くことの出来ない雰囲気を備えている、叡智のあることが、浅草芸人として最も必要だ

演芸一皿料理「芸人素描・“呆れた”からミルク兄弟へ!川田義雄」/都新聞・1939年6月16日

川田義雄率いるミルクブラザースは、これまでのあきれたぼういずと同じく、浅草花月劇場を拠点に活動していく。
7月には有楽座、8月には日劇に出演しており、これもあきれた時代からの繋がりを感じる。

あきれたぼういずは単独出演だったが、今回は吉本ショウまるごと出演で日劇を征服!マーカス・ショウの踏襲だろうか/都新聞・1939年7月31日

ただ今までと違うのは、「ミルクブラザース」というグループ名よりも「川田義雄」の名前を大きく売り出している点だ。
広告でも徐々に「川田義雄」の名前が大きく冠せられるようになっていく。
また、バイオリンとアコーディオンのプロが加わったことで音楽的レベルは格段に向上している。

ちなみに、7月頃からアコーディオンの菅井太郎の名前が広告に出てこなくなり、8月には菅井の代わりに有木三多が加入したことが報じられている。

そして引き抜き騒動最中に結成された「ザツオンブラザース」が同じ浅草花月劇場の舞台に立つこととなり、よりグループの個性を求められるようになった。

◆…花月劇場の吉本ショウへ、ミルク・ブラザースとザツオン・ブラザースとが同舟して出演、第二週目を迎えている、そこでこの二つのヴォードビル団の舞台はどうかと言うと、先ずミルクの方は、頭山光の達者なヴァイオリン、菅井太郎のアコーディオン等を加えて一体に音楽的方面はあきれた当時に比べて豊かになっているがそれだけ何となく綺麗事に行っているのと、その一方に他の芸に於て欠けている事とが、見物受けの点に於てどうかと思われる
◆…が四人の意気がピッタリ合って、楽器以外の芸にも変化と達者さとが加わって行くようになればよくなる訳で、前のあきれただって、一日にしてあの評判を得たものでない点に鑑みて、籍すに時をもってすべしという所か
…要するにこの二つのヴォードビル団、ミルクの方は家元の格を保持する手前、いかにすれば新奇を追って、類似ヴォードビル団より一歩抜けられるかという所に悩みがあるらしい…

「ミルクとザツオン/花月劇場」/都新聞・1939年6月23日
浅草花月劇場のステージで共演の両ボーイズ。スリー・シスターズ(中央)を挟んで左がザツオン・ブラザース、右がミルク・ブラザース(同記事写真)

【参考文献】
『松竹百年史』東京松竹/1996
『近代歌舞伎年表 京都篇』国立劇場近代歌舞伎年表編纂室/1995
『近代歌舞伎年表 大阪篇』国立劇場近代歌舞伎年表編纂室/1994
『スタア』1939年7月上旬号
「都新聞」/都新聞社
「京都日日新聞」/京都日日新聞社
「神戸新聞」/神戸新聞社


(次回11/26)あきれた東京へ、ミルクは京都へ

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