(前回のあらすじ)
引抜き騒動もようやく解決。新たなメンバーも加わり、「第2次あきれたぼういず」「川田義雄とミルク・ブラザース」としてそれぞれ再始動、久々に舞台に姿を現した。
※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!
浅草に残った川田のミルクブラザース、一方関西へ移った坊屋達の第2次あきれたぼういずは、ここからライバルとして競り合いながら活動していくこととなる。
今回は、1939(昭和14)年後半、再始動後の彼らの活躍を見ていこう。
【第2次あきれたぼういず】
あきれたぼういずは1939年4月末からの京都松竹劇場での初公演の後、6月には大阪の角座、7月には神戸松竹劇場で初披露公演を行っている。
神戸では「あきれた商売往来・儲けまショウ」を上演しているが、このとき劇場に押しかけた人々の殺到ぶりは神戸新聞で「松劇の新記録」として報じられている。
以来、不規則ながら京都・大阪・神戸の劇場を巡演。(大阪での出演劇場は途中から浪花座へ変わっている。)
契約当初に約束されていた通り、三都市の劇場を同じプログラムで回るスタイルだ。
新聞の舞台評を見ていくと、舞台を重ねるうちに、徐々に四人の息が合うようになってきていると評価されている。
ただ、オリジナル時代のネタの再利用も多く、また芸風的にもオリジナル時代から脱却できていない点は繰り返し指摘されている。
移籍当初は、坊屋が中心になってネタを自作していたようだ。
吉本時代は、ネタは全員の持ち寄りでも、それを台本にまとめていたのは川田である。
作者として川田が担っていた役割は大きい。
川田を失った今、「この一座に必要なのは、目下のところ、何よりも一人のよき作者である」(小倉浩一郎「あきれたボーイズ」)というのが、批評家達の共通する意見だ。
【川田義雄とミルクブラザース】
川田義雄率いるミルクブラザースは、これまでのあきれたぼういずと同じく、浅草花月劇場を拠点に活動していく。
7月には有楽座、8月には日劇に出演しており、これもあきれた時代からの繋がりを感じる。
ただ今までと違うのは、「ミルクブラザース」というグループ名よりも「川田義雄」の名前を大きく売り出している点だ。
広告でも徐々に「川田義雄」の名前が大きく冠せられるようになっていく。
また、バイオリンとアコーディオンのプロが加わったことで音楽的レベルは格段に向上している。
ちなみに、7月頃からアコーディオンの菅井太郎の名前が広告に出てこなくなり、8月には菅井の代わりに有木三多が加入したことが報じられている。
そして引き抜き騒動最中に結成された「ザツオンブラザース」が同じ浅草花月劇場の舞台に立つこととなり、よりグループの個性を求められるようになった。
【参考文献】
『松竹百年史』東京松竹/1996
『近代歌舞伎年表 京都篇』国立劇場近代歌舞伎年表編纂室/1995
『近代歌舞伎年表 大阪篇』国立劇場近代歌舞伎年表編纂室/1994
『スタア』1939年7月上旬号
「都新聞」/都新聞社
「京都日日新聞」/京都日日新聞社
「神戸新聞」/神戸新聞社
(次回11/26)あきれた東京へ、ミルクは京都へ