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(48)地方へ/あきれたぼういず活動記

前回のあらすじ)
1941(昭和16)年4月、第2次あきれたぼういず始動から2年。益田喜頓が“消えトン”した。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

【益田喜頓の新たな一歩】

新興演芸部を離れた益田は、東宝に出来たばかりの「東宝映画演芸隊」と専属契約を結ぶ。
5月には、当初の望み通り浅草へ帰り、当時浅草でぐんぐん売り出していたシミキンこと清水金一と共演している。
6、7分程度の一人舞台にも挑んで、いろいろと試行錯誤中のようだ。

 ギター片手に相変らずながら、新手のギャグを案出して、お得意のヨーデルや、勝太郎の声帯模写(但し歌はヴァイオリンの高音がやる)から、セイラーダンスさてはロシアンダンスまで、一着の衣裳を巧みに使い分けての大奮闘、兎に角車輪の舞台である
 今までの喜頓は常にワキ役であった、ワキはシテあってのワキで、ワキ自身いかに完成されても、所詮天下を相手にする芸ではない――此処に喜頓の苦悩があった、四人の集団から離れた喜頓は、従来のワキとして身につけた「とぼけた味」と同時にシテとして己を表現しなければならなかった
 「自信はないんです、が、やらなくっちゃならないと考え始めたんです」彼は六分から十分、十五分と一人舞台の時間を延長して行く勉強をする、と云っている

「演芸一皿料理」/都新聞・1941年6月22日

また、6月には東宝映画「歌へば天国」に出演。
あきれたから離れたことで、益田もまた、川田のように個人の名前と個性を売り出しつつあるようだ。

「歌へば天国」広告/都新聞・1941年6月9日

11月には故郷である函館に帰り、公楽映画劇場で公演。
チームを抜けて、一人で再出発したタイミングで故郷の舞台を踏んでいるというのはどこか象徴的だ。
このとき、函館太洋時代に世話になった久慈次郎選手の墓も訪ねている。

故郷、函館での初公演記事と広告/函館新聞・1941年11月1日

【消えトンの穴埋め】

さて、益田側は熟考の末の脱退だったが、残されたあきれた三人はその穴埋めメンバーがなかなか決まらず苦労しているようである。

4月20日からの神戸松竹劇場公演では、同じ公演に参加していた田島辰夫が益田の代役を務めてくれている。
その後、同じ新興演芸部の長井隆也が参加。
彼はギター奏者だが、漫才師のラッキー・セブン、歌手の水島早苗と四人で組んで「オペレッタ漫才」なるものもやっており、ヴォードビリアンとしての経験もあった。

こうして近しい芸人たちでなんとか代役を立てつつ、6月にはようやく正式な加入メンバーが決定。
宝塚楽劇団で「ビックリボーイズ」として活動していた、星野伸二である。
ビックリボーイズ結成以前には、宝塚歌劇のレビューの挿入歌を作曲したり(1931年頃の宝塚の資料にすでに名前がある)、楽団の指揮者を務めたりしていた。
あらゆる楽器をこなすことから、あきれたへの加入を機に坊屋が「音楽男(おとらくお)」なる芸名をつけた。
あきれたでは、主にバイオリンを担当している。

新興快速隊・喜頓の穴を補充
 新興快速部隊(あきれた・ぼういず)の益田喜頓が抜けた後へは、長井隆也が入る事になっていた所取止めとなり、もと宝塚オーケストラにいて、その後ビックリボーイズの主宰者でもあった星野伸二が、音楽男の舞台名で六月一日から加入することになった

都新聞・1941年5月31日
左から芝・音・山茶花・坊屋

【地方巡業】

あきれたぼういずが消えトン騒ぎで奔走していたその頃、所属する新興キネマでは、全国各地の映画館を次々に入手し、直営の上映館を増やしていた。

 新興が地方の中流都市に着目したのは、大都市は既に各社の勢力圏が根を張っていて割り込む余地なしと見たためであるが、今秋までには少くとも二、三十館はその掌中に掴み得るという意気込みである

都新聞・1941年5月21日

また、6月9日には「日本移動演劇連盟」が発足。
都心集中型ではなく、地方農村に目を向けた演劇活動が活発に行われるようになっていった。

これらの動きの影響か、6月から8月にかけて、あきれたぼういずも今まで訪れることのなかった全国各地の地方劇場に出演している。

まずは6月3日までの神戸有楽館公演の直後、4日から山口県下関市の新富座で公演しており、14日・15日は福岡市中洲の博多演芸館(多門座)に登場している。

この福岡公演を報じた福岡日日新聞(6月14日)では、その後の旅程について「一行の九州巡業は一四、五両日の博多限りとし、次ぎに北陸地方を廻り、月末台湾に向う由」とある。
坊屋も、この時期に台湾へ巡業で赴いたことを後に語っている。

博多演芸館公演広告/福岡日日新聞・1941年6月13日

7月22日から3日間は、石川県にて粟ヶ崎遊園のお盆特別公演に出演。
粟ヶ崎遊園といえば、かつて芝利英・益田喜頓が藤井とほる一座(明朗五人ボーイ)として出演していた場所だ。
益田が脱けた後なのが惜しいが、芝利英が9年振りに懐かしの舞台に登場しているのは嬉しい。
(※粟ヶ崎遊園・藤井とほる一座については(18)(19)を!)

さらに、8月23日から3日間、今度は札幌市のエンゼル館で公演している。
あきれたぼういず初の北海道公演で、坊屋と芝はようやく故郷に錦を飾れたわけだ。
芝にとっては札幌は「赤い風車」でデビューした、出発点でもある。
(※赤い風車については(13)(14)(15)を!)

益田の不在がここでも悔やまれるが、なんとこのとき同時上映した映画が「歌へば天国」。
スクリーンの中から、益田も顔を見せている。

札幌エンゼル館公演広告/北海タイムス・1941年8月23日

全国各地の地方新聞をチェックすれば、この間にまだまだたくさんの地方公演を見つけることができそうだ。
(筆者は山口生まれ・福岡育ちなので地元の新聞を見てみた。ぜひ、地域の図書館で探してみてほしい。)
6月から8月まで、この怒涛の地方巡りが続いていたが、9月からは再びお馴染みの関西の劇場を巡演するスタイルに戻っている。


【参考文献】
『松竹百年史』東京松竹/1996
『近代歌舞伎年表 京都篇』国立劇場近代歌舞伎年表編纂室/1995
『近代歌舞伎年表 大阪篇』国立劇場近代歌舞伎年表編纂室/1994
「都新聞」/都新聞社
「北海タイムス」/北海道新聞社
「函館新聞」函館新聞社
「京都日日新聞」/京都日日新聞社
「神戸新聞」/神戸新聞社
「北國新聞」/北國新聞社
「福岡日日新聞」/福岡日日新聞社
「関門日日新聞」/関門日日新聞社


(次回1/7)川田のボイコット

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