(45)闘い・昭和15年②/あきれたぼういず活動記
(前回のあらすじ)
第2次あきれたぼういずは「動き」重視のコント路線に、ミルクブラザースは川田を主体とした「音楽」性にそれぞれ活路を見出した。
※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!
【笑いも新体制】
試行錯誤の末、ようやくそれぞれの方向性を見出しつつあった彼らだが、突如、大きな壁が立ちはだかる。
7月7日、「奢侈品等製造販売制限規則」いわゆる「七・七禁令」が施行されたのだ。「贅沢は敵だ」の風潮が強まるなか、演芸も新体制となっていき、国のためにならない笑い、時代にそぐわない笑いは制限されていく。
数ある演芸ジャンルの中でもとくに大きな打撃を受けたのがボーイズで、大きな方向転換を迫られている。
「ジャズ」が退廃的な音楽として排撃されたこと、また「複数人で、歌とギャグ、セリフと動きで表現する」という芸風の影響力が大きいとして様々に制限されたことがかなりの痛手となった。
「七・七禁令」に対し、さっそく行動を起こしたのが坊屋だ。
彼はまだ注意を受けないうちに、「自発的に警視庁へ出頭」したのだ。
そして検閲担当者と懇談し、どういった表現が注意・取締りの対象となるのか、事前に確認を取るという、先回り作戦に出ている。
その懇談ののち、坊屋は都新聞でこう語っている。
9月に京都松竹劇場で上演した「陽気な妖怪」は世界中のオバケが登場するショウだが、このオバケ達が「現下の世界情勢、新体制の何たるか」を説いている。
このあたりに検閲対策の工夫がみえる。
しかし、こうして対策を練ったにもかかわらず、11月には浅草松竹座公演「あかり物語」について「警視庁で却下・四人を呼び出し厳重説諭」されている。(都新聞・1940年11月12日)
また坊屋の懇談では「アキレタボーイズという名前は別に注意されませんでした」とのことだが、翌年には「新興快速舞隊」に改称している。
めまぐるしく変化する規制方針に振り回されているようである。
ミルク・ブラザースも「芝居に四人一緒に出るのはいけない」とされ、舞台や映画でのあり方を根本から見直さなければならなくなってきている。
レコードやラジオ放送については、川田は「この前放送した『桃太郎』のような素材を取り上げてゆくつもりでいます」と語っている。
これは6月に放送した「新版桃太郎」のことで、のちにレコードにも吹き込んでいる。
また、10月の京都花月劇場公演について「健康的な朗笑をねらったもの」と紹介されており、時代の傾向を感じる表現である。
ここではお得意の「かわった数え唄」も披露しているが、「時局詔識と国策を巧に織り込み真面目を遺憾なく発揮」しているという。
6月の日劇でも数え唄をやっているが、禁令以後、内容はどう変わったのだろうか。
(8月新譜でレコードにもなっており、これが禁令以前・以後いずれのバージョンの吹き込みなのか、気になるところだ。)
【川田、吉本へ抗議】
さらにもう一つ、問題が持ち上がっている。
川田が11月に、待遇改善を求めて吉本興業へ抗議を提出したのだ。
これはあまりに休みが少なく、そのため健康面に心配が起こること、新作を作る暇がないことが理由である。
川田の多忙ぶりは、しばしば都新聞でも話題になっている。
これは第1次あきれたぼういず時代からの問題であり、坊屋ら三人が新興キネマへはしった原因の一つでもあった。
残った川田に対し、吉本興業では給与面などいくつかの待遇改善を行ったようだが、肝心の休みの確保は先延ばしになっていた。
都新聞によれば、川田はこの点を以前から吉本側と話し合っていたが解決がみられず、ついに退社も辞さない覚悟で抗議文を提出したとのこと。
結局、川田はその後も吉本の舞台に出演し続けているが、吉本興業との問題が解決したというわけではなく、翌年再び揉めることとなる。
【参考文献】
『近代歌舞伎年表 京都篇』国立劇場近代歌舞伎年表編纂室/1995
『近代歌舞伎年表 大阪篇』国立劇場近代歌舞伎年表編纂室/1994
「都新聞」/都新聞社
「京都日日新聞」/京都日日新聞社
(次回12/17)昭和15年まとめ