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(45)闘い・昭和15年②/あきれたぼういず活動記

前回のあらすじ)
第2次あきれたぼういずは「動き」重視のコント路線に、ミルクブラザースは川田を主体とした「音楽」性にそれぞれ活路を見出した。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

【笑いも新体制】

 七・七禁令以後、何々ボーイズたちの鯱こばり方は大したものだ。まるで殿様の前に出た八五郎みたいに固くなり切って口も利けない。

 人生の通風筒みたいのが軽芸人の使命である。それを煤の詰ったえんとつみたいにコチコチに固まっちまっては風通しどころか、人生の重苦しさを増すばかり。

演芸一皿料理「人生の煙突:鯱こばったボーイズ」/都新聞・1940年8月14日

試行錯誤の末、ようやくそれぞれの方向性を見出しつつあった彼らだが、突如、大きな壁が立ちはだかる。 
7月7日、「奢侈品等製造販売制限規則」いわゆる「七・七禁令」が施行されたのだ。「贅沢は敵だ」の風潮が強まるなか、演芸も新体制となっていき、国のためにならない笑い、時代にそぐわない笑いは制限されていく。

数ある演芸ジャンルの中でもとくに大きな打撃を受けたのがボーイズで、大きな方向転換を迫られている。
「ジャズ」が退廃的な音楽として排撃されたこと、また「複数人で、歌とギャグ、セリフと動きで表現する」という芸風の影響力が大きいとして様々に制限されたことがかなりの痛手となった。

「七・七禁令」に対し、さっそく行動を起こしたのが坊屋だ。
彼はまだ注意を受けないうちに、「自発的に警視庁へ出頭」したのだ。
そして検閲担当者と懇談し、どういった表現が注意・取締りの対象となるのか、事前に確認を取るという、先回り作戦に出ている。
その懇談ののち、坊屋は都新聞でこう語っている。

 当局の言う事はよく判りました、唯一番私達にとって重大な問題は、四人の醸し出す雰囲気が愚劣ではないかという事でした、これは寧ろ我々の扱う題材の問題だと思いました
 要するに何の意味もない事を取扱って、オチをつけるのがいけないと言うのでしょう、それは一時の笑いだけでなく、我々四人がゼスチュアをつけてやるために影響が大きいからでしょう、この点は今後我々も考えなければなりません

 尚当局がジャズについて持っている意見というのは、ジャズも全然アメリカの模倣であってはならない、という事らしいのです、或一定の技術を得たならば、それを品位のある日本的なものにしろと言うのです
 それならば歌舞伎や浪花節ばかりが日本的かと言うと、そうでもなく、現代の非常時が求める日本的なもの、それを当局が強調しているのです、以上のような訳で、我々は今後はっきりと、生活に結びついたもの以外は取扱わない事にしました

「笑いも新体制:“あきれた”の坊屋三郎警視庁へ自発的に出頭懇談」/都新聞・1940年8月5日
同記事

9月に京都松竹劇場で上演した「陽気な妖怪」は世界中のオバケが登場するショウだが、このオバケ達が「現下の世界情勢、新体制の何たるか」を説いている。
このあたりに検閲対策の工夫がみえる。

しかし、こうして対策を練ったにもかかわらず、11月には浅草松竹座公演「あかり物語」について「警視庁で却下・四人を呼び出し厳重説諭」されている。(都新聞・1940年11月12日)
また坊屋の懇談では「アキレタボーイズという名前は別に注意されませんでした」とのことだが、翌年には「新興快速舞隊」に改称している。
めまぐるしく変化する規制方針に振り回されているようである。

「あかり物語」広告。台本が警視庁で却下され、前公演の「駅馬車」を続演した/都新聞・1940年11月11日


ミルク・ブラザースも「芝居に四人一緒に出るのはいけない」とされ、舞台や映画でのあり方を根本から見直さなければならなくなってきている。

レコードやラジオ放送については、川田は「この前放送した『桃太郎』のような素材を取り上げてゆくつもりでいます」と語っている。
これは6月に放送した「新版桃太郎」のことで、のちにレコードにも吹き込んでいる。

都新聞・1941年5月25日

また、10月の京都花月劇場公演について「健康的な朗笑をねらったもの」と紹介されており、時代の傾向を感じる表現である。
ここではお得意の「かわった数え唄」も披露しているが、「時局詔識と国策を巧に織り込み真面目を遺憾なく発揮」しているという。
6月の日劇でも数え唄をやっているが、禁令以後、内容はどう変わったのだろうか。
(8月新譜でレコードにもなっており、これが禁令以前・以後いずれのバージョンの吹き込みなのか、気になるところだ。)

 僕も一介の演芸人として、銃後の笑いを健全にする事を忘れてはいません、この難関は台本一つで切り抜けなければならないと思っています

(川田義雄「健全な笑いを」/都新聞・1940年8月5日)

【川田、吉本へ抗議】

さらにもう一つ、問題が持ち上がっている。
川田が11月に、待遇改善を求めて吉本興業へ抗議を提出したのだ。
これはあまりに休みが少なく、そのため健康面に心配が起こること、新作を作る暇がないことが理由である。
川田の多忙ぶりは、しばしば都新聞でも話題になっている。

 二月東京を留守にしていた川田義雄等のミルクブラザース、久し振りで浅草に帰って来るとレコードの吹込みや放送の打合せで、目の回るような忙しさ、この間の日曜の如きは花月劇場に四回、日比谷公会堂の長谷川一夫の回に昼夜二回、その上後楽園の商業野球のアトラクションに頼まれて七回出演という、正に新記録の樹立

「驚異的大記録」/都新聞・1940年3月8日

 目下京都へ出張公演をしてござる川田義雄、さぞや悠々と羽をのばしている事だらうと思うと、これがさに非ず、まず帰京しての公演の為に連日汗水流して台本を書いている、中々新しいネタが仕込めなくて正に頭痛鉢巻、そこへもってきて近く又放送をするというので、これも新しい台本をという注文を出されネタの無い上へ更にネタを要求されて弱っている、彼の頭髪が次第にうすくなりゆくのも亦むべなる哉というところ……

「虐められ通し」/都新聞・1940年6月12日

これは第1次あきれたぼういず時代からの問題であり、坊屋ら三人が新興キネマへはしった原因の一つでもあった。

残った川田に対し、吉本興業では給与面などいくつかの待遇改善を行ったようだが、肝心の休みの確保は先延ばしになっていた。
都新聞によれば、川田はこの点を以前から吉本側と話し合っていたが解決がみられず、ついに退社も辞さない覚悟で抗議文を提出したとのこと。

 川田が吉本興業に対する不満というのは、昨年の春、世間を騒がした例の坊屋三郎等三人の新興入り事件の際、独り居残った川田に約した待遇条件が久しくそのまま放っておかれたり等々いろいろとあるが、尤も彼等を苦しませたのは、舞台上の悩みで、実演に撮影に、この間全く余裕がない働かせられ方に、休養が得られず奔命に疲れるばかりか肝腎の世間の期待に応える新作を練る事も出来ず、このままではただ降下の一路を辿るより仕方がないという悲哀なのである…

「不満の川田義雄:退社を決意して吉本興業へ抗議提出」/都新聞・1940年11月24日
同記事

結局、川田はその後も吉本の舞台に出演し続けているが、吉本興業との問題が解決したというわけではなく、翌年再び揉めることとなる。


【参考文献】
『近代歌舞伎年表 京都篇』国立劇場近代歌舞伎年表編纂室/1995
『近代歌舞伎年表 大阪篇』国立劇場近代歌舞伎年表編纂室/1994
「都新聞」/都新聞社
「京都日日新聞」/京都日日新聞社


(次回12/17)昭和15年まとめ

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