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(7)夕張の兄と弟/あきれたぼういず活動記

▶︎坊屋三郎と芝利英は、実の兄弟である。
生まれは北海道、夕張。
今回は二人の生い立ちを追っていきたい。

【炭鉱の町】

夕張は、石炭鉱脈の発見をきっかけに人々が集い、明治になってから生まれた新しい町だ。
坊屋や芝が生まれ育った1900〜1910年代(明治末〜大正)は石炭産業でどんどん活気づき、人口もうなぎ登りに増えていた時期になる。

父である石川岩吉は山梨県甲府出身で、早くから夕張に移り住んで妻のコウと共に本町(ほんちょう)の商店街で薬屋を開いた。
坊屋によれば、
魚類と野菜の市場の重役をかね、うちでは薬屋をやっていた」(「明朗ユーモア座談会」/都新聞・1940年9月1日)らしい。
商店街のまとめ役といった存在だろうか。

【坊屋、養子に】

そして三男の博、つまり坊屋三郎が生まれたのが、1910(明治43)年3月28日。
しかし、

 生まれて二百日目に、あたしはよそにもらわれてゆく……。その先が、なんと実相寺というお寺だ。

坊屋三郎『これはマジメな喜劇でス』

と、坊屋が著書で語っているように、
まもなく彼は同じ本町内にある曹洞宗実相寺の初代住職・柴田俊龍、妻クラの養子となり、
名前も石川博から柴田俊英に変わる。

実の母親であるコウは、我が子が泣いてはいないかと心配し、たびたびこっそりと実相寺のそばへ声を聞きに来ていたという。

養子に入った時期については、坊屋の著書では「生まれて200日目」、
実相寺で伺った話では「生まれて70日目」だが、
戸籍上では生後2年8ヶ月の1912(大正元)年11月に手続きが行われている。
実際には戸籍の手続きに先行して早くから養子に出されていたのかもしれない。

【弟、芝利英生まれる】

いずれにしろ、坊屋が養子に出た後である1913(大正2)年6月20日に石川家四男として生まれたのが、正、つまり芝利英で、
つまり二人は兄弟ではあるが一緒に暮らした時期はない。

『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社)によれば坊屋は夕張尋常高等小学校を出ている。
芝も同校を卒業したのではないかと思われる。


【石川家について】

石川家については既存の資料が少なく、
石川家次男・壽(たもつ)氏の息子の(つまり坊屋と芝の甥にあたる)石川大陸氏が提供くださった情報や、実相寺の夏目シゲ氏に取材した話によるところが大きい。
これと夕張町史・夕張市史とを照らし合わせて、少し補足しておきたいと思う。

◆石川家の家族構成……父親が石川岩吉、母がコウ。
夭折した長女・四女を除くと4男2女の6人兄弟。

◆父・岩吉は1866(慶応3)年生まれで山梨県甲府市出身だが、
大正4年の「夕張在住二十年会」会員に名前があるので登川村開村まもない頃にはもうこちらに移り住んでいたようである。
村会議員・町会議員もやっていたとの記録がある。
夕張という町をゼロから作っていった人々の一人といえるだろう。

◆母・コウは1881(明治14)年生まれ、福井県足羽郡酒生村(現・福井市)出身で旧姓は梅田だが、登川村に養子にきて水戸姓となり、1898(明治31)年に岩吉と結婚し石川姓となる。

◆石川家の場所については、当初は本町4丁目で「石川雑貨店」という名前で商売をしており、のちに「石川商店」と名前を変えている。
そして昭和10年代頃に本町5丁目に移ったようである。

【実相寺について】

実相寺についても少し補足を。

◆坊屋が養子となった実相寺は本町3丁目、石川商店などのある商店街からすこしわきにそれた小高い場所にある。

◆実相寺の歴史は、1893(明治26)年に山形の行脚僧・藤本文嶺が夕張を訪れ布教したことに始まる。
仮説教所を経て、1907(明治40)年に現在の場所に移る。
翌年に初代住職として柴田俊龍(愛知出身)を迎え、雲龍山実相寺として開山。
坊屋が過ごしていたころはまだ新築ピカピカの本堂だっただろう。

◆『夕張町開基四十周年記念写真帖』の実相寺に関する頁には、寺のために特に尽力した人物の一人として石川岩吉の名が挙がっている。
坊屋の養子縁組もその表れであるといえる。


【参考文献】
『夕張市史』夕張市史編さん委員会・編/1981
『夕張町史』北海道夕張郡夕張町・編/1937
『夕張町開基四十周年記念写真帖』長澤均・編/1937
『これはマジメな喜劇でス』坊屋三郎/博美館出版/1990
『日本映画俳優全集・男優編』キネマ旬報社/1979
都新聞/都新聞社


▶︎(3/26UP予定)芝利英の人柄を考察

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