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(15)赤い風車、解散/あきれたぼういず活動記
(前回のあらすじ)
益田のいる札幌初のレヴュー団「赤い風車」は道内各地〜樺太まで巡業。そこへ芝利英と木田三千雄が加入してきた。
【本州巡業】
1931(昭和6)年3月、芝利英は北海中学を卒業。
赤い風車は今度は本州へ渡り、南へ南へと巡業を始める。
再び益田の著書から地名を拾っていくと、青森、秋田(湯沢)、福島、新潟、富山、愛知(名古屋)、京都。
主に映画館のアトラクションなどに出演し、楽屋に泊まることも多かった。
「給料のかわりにゴールデン・バット一個」という苦しさに、松本市での巡業中、とうとう木田三千雄がドロンした。
このとき芝が手引きして、駅のトイレに隠れたのだそうだ。
益田の著書で木田がさっぱり出てこないのは、これが理由かもしれない。
木田はその後、益田や芝よりひと足はやく浅草へ出ている。
益田と芝は芝居の研究をして、二人で寸劇もやったという。
藤井から歌唱も教わった。
名古屋でのこと。
案内人に連れられて大須観音の境内を歩きながら、そこに並ぶ粗末な小屋を見て「これはひでえや」などと笑って話していたら、そこが自分たちの出る小屋だったので閉口してしまった。
気を取り直して、小さな小屋になんとかピアノを運びこみ、益田は「ティティナ」を原語で歌い、芝はロシアダンスを踊ったが、客層に合わなかったのか結果は散々。
しかし、悪いことばかりではなかった。
この名古屋滞在中、ひとつ重要な出会いがあったのだ。
【忘れられぬステージ】
もう一つ忘れられない思い出があるのです。その劇場街に大和座という軽演劇のショーの小屋があり、偶然そこをのぞいた時、唄入りの芝居の中の中心人物、その役者の演技の歯切れの良さ、唄の素晴らしさに打たれ、私は三度同じ舞台を見に行ったのです。その役者こそ後のあきれたボーイズの川田義雄なのです。
なんと、のちにあきれたぼういずで一緒になる川田義雄が、同じ時期に名古屋で公演していたのだ。
note(3)ジャズ・オブ・トーキョーで書いたように、川田は「ジャズ・オブ・トーキョー新劇レヴュー団」の座長として大陸巡業の後、帰国して横浜、名古屋と公演を行っている。
どうやらこれを、益田と芝が観ていたらしいのだ。
時期はおそらく、昭和7年の7月頃(※1) 。
二人は舞台上の川田に感激し、強く印象に残ったことを、のちに再会した川田に語ったという。
(※1) 『川田晴久読本:地球の上に朝が来る』の中の瀬川昌久「川田義雄の半生期」(中央公論新社/2003)によれば、川田は昭和6年にも名古屋の新守座で公演しており、この時の公演を益田や芝が観たのではないかと予想されている。ただ、赤い風車の巡業のスケジュールを調べていくと、上記の昭和7年の公演を観たと考えるほうが無理がないように思われる。
【京都へ】
その後の足跡については、益田の著書に
名古屋の次は京都の三友劇場でした。
…
その京極の端にある三友劇場は芝居小屋で「明石潮一座」という剣劇の劇団と合同公演というのですからこれも一苦労でした。
とある。
明石潮は大正時代から活躍した剣劇スターで、当時自身の一座を組んでいた。
本拠地は浅草だが地方でも公演しており、この三友劇場出演もその一つだろう。
三友劇場の公演記録から明石潮の名前を探してみると、1932(昭和7)年10月1日から「松尾志乃武に尾上多見太郎加盟の一座」が公演し、同月29日からそこに「木下八百子一派」「明石潮一座」が加わって「三派合同劇」と銘打たれている。
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「赤い風車」らしき劇団の記録はないが、このとき一緒に三友劇場に出ていた可能性はありそうだ。益田の著書には
三友劇場は専属の「五色会」という少女歌劇団を持ってまして、その二十数人の歌劇団員に藤田先生(=藤井徹)から歌を本格的に習わせ、東さんからは舞踊をきちっとレッスンしてもらうことが本意だったのでしょう。
とも書かれている。この「五色会」という少女歌劇団は同年1月の広告に初めて登場しているので、その数ヶ月後、赤い風車の藤井徹らに指導してもらったというのはタイミング的にもしっくりくる。
益田によれば、この三友劇場での公演は好評で二ヶ月ほど続いたという。
「三派合同劇」も、12月末まで続いているのでちょうど二ヶ月。
そしてこれが、赤い風車の最後の公演となる。
京都三友劇場は二カ月間の長期公演になりました。そのため、先のコースが狂ったのかこのまま続ければ続けるほど赤字が増えて取り返しがつかなくなると予測したのかよくわかりません。札幌の本拠から千秋楽の翌日一応引き揚げるようにと支配人に通告があり「赤い風車レビュー団」は京都で打ち切ることになりました。つまり解散ということです。
藤田先生夫婦は新潟の柏崎の自宅へ、他の者は札幌へということになり、私と石川順(=芝利英)は若さと希望を抱いて、夢の浅草、東京の舞台を目指して再出発する決心をしました。
この解散について、五十嵐の語るところは若干違っている。
京都の新京極で半年ほど打って、大阪の新世界に乗り込んだら、映画俳優の尾上多見太郎が一座を構えていて、「芝居だけじゃ売れない、一緒にくんだら」と持ちかけてきたので、渡りに舟、合同することにし、それを機会にぼくは札幌に引き揚げてきた。
尾上多見太郎は大阪出身の俳優。
先述のように、三友劇場の「三派合同劇」の一組として出演している。
彼の一座と合同にすることにして、五十嵐は手を引いたという。
つまり「赤い風車」は解散したが、残った劇団員たちは尾上らと大阪へ赴いたのだろうか。大阪での尾上多見太郎一座の公演記録が見つかれば、このあたりもはっきりしそうだ。
いずれにせよ、1932(昭和7)年末に赤い風車は解散したらしい。
1931(昭和6)年元日から、ちょうど二年間活動していたことになる。
【参考文献】
『キートンの人生楽屋ばなし』益田喜頓/北海道新聞社/1990
『乞食のナポ:喜頓短篇集』益田喜頓/六芸書房/1967
『川田晴久読本〜地球の上に朝が来る〜』池内紀ほか/中央公論新社/2003
『近代歌舞伎年表 京都篇』国立劇場近代歌舞伎年表編纂室/1995
「わたしの北海道」五十嵐久一/朝日新聞道内版/1978年8月23・24日掲載/朝日新聞社
「京都日日新聞」/京都日日新聞社
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