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(22)吉本ショウでの活躍②/あきれたぼういず活動記

(前回のあらすじ)
浅草花月劇場を拠点に活動するショウ劇団「吉本ショウ」。
その一員として、川田義雄・芝利英・坊屋三郎も歌にコントにさまざまな活躍を見せる。

▶︎今回は前回に引き続き、彼ら三人の活躍を新聞や雑誌から取り上げていきたい。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

◆実演(芝居)での活躍◆

浅草花月劇場では、吉本ショウとは別に永田キング一党やオオタケ・フォーリー、新喜劇座などの吉本興業の一座が主体となり、数景の芝居を上演することがある。
これにも川田ら三人はよく参加していたようだ。

1936年8月1日からは、柳家金語楼の演出による実演「モロッコ」(映画「モロッコ」を喜劇にしたもの)をやっているが、これに川田と芝が参加している。
『東京喜劇:アチャラカの歴史』(原健太郎)には、台本を持って稽古中の金語楼、主演の伊達里子、川田と芝が並んで写った写真が載っている。

また12月の永田キングの漫才ショウ「妄想部落」には川田が出演。
月曜壇場での評では「相棒の川田義雄、これも達者で、キングと共に、八景の舞台を少しもダレさせずに運んだ」(1936年12月21日)と褒めてある。

◆各メンバーへの評◆

都新聞、1937(昭和12)年4月22日の演芸面では、「エンコ群雄伝」と題したコーナーに川田義雄とダンサーの西條君江の二人が登場。
吉本ショウを初期から支えるメンバーとしてスポットを当てられている。

川田については「歌もいければ芝居もやるし、スケッチをやらしたらとっくの昔に、一家を成している」と紹介されており、音羽座でのデビューからの経歴と苦労を語っている。
写真入りでこうして大きく紹介されているのは、おそらく初めてだろう。

都新聞/1937年4月22日

そして4月26日の月曜壇場では、吉本ショウのメンバー達それぞれへの批評がなされている。
また、同月の『ヨシモト』誌にも同様のメンバー評が掲載されている。
なかなか面白いので、川田ら三人の箇所だけ抜き出して並べてみよう。

川田義雄は口八丁手八丁、但し一人で芝居をしてしまうのはよくない
余りパアッとしないのが坊屋三郎、彼は何か一人そぐわないものがある、又弟の芝利江は浅草の舞台、観客を知っていて悪達者な所がある

都新聞「月曜壇場」/1937年4月26日

川田義雄 そのステージに於ける図々しさは驚ろく程だ。歌が唄えて、芝居が上手で、何不足ないと…までは行かぬが、私達の望むには、其の舞台に独自の芸風が欲しいのだ。あえて芸風と云いたい、吉本の古豪よ。
芝利英 グングンのしてきた新星、コメディアンとして、川田と一対だ。惜むらくは、あまり軽すぎる。精進せよ!
坊屋三郎 スタートは頗る盛んだったが此の頃はあまり栄ない、平凡で終らぬ様に……

伝通院正志「東京吉本ショウへの録音」/『ヨシモト』1937年4月号

書き手は別人だろうが、評価はよく似ている。
川田が歌に芝居にとオールマイティな活躍を見せており、芝も「軽すぎる」きらいはあるものの、浅草の舞台に馴染んで頭角を現してきている。
坊屋はまだ加入から日が浅いせいか、この段階では伸び悩んでいるのが意外なところだ。

◆神風ニッポン◆

1937(昭和12)年4月2日からの吉本ショウ「神風ニッポン」は、朝日新聞が主催で日本からロンドンまでの連絡飛行を試みた飛行機「神風」号のプロジェクトをレヴューにしたものだ。
神風号は日本を4月6日に発ち、9日にロンドンに無事到着したが、レヴューの初日のほうが本物の飛行より早く、連絡飛行と同時並行で上演している。

神風号に乗っていた飯沼操縦士と塚越機関士が主役だが、この二人の役を川田と芝が演じている。
これは、朝日新聞で写真入りで紹介された。

レビューでも”神風”声援
コース通りに展げる舞台
浅草の花月劇場で

☆★…亜欧連絡飛行の『神風』が浅草のレビューにも登場した。
 それは花月劇場の記念公演に、吉本ショウ『神風・ニッポン』を一日から十日まで上演し、舞台を朝日社旗で彩っている。
まず勇壮な『行けよ神風空遠く』の声援歌合奏で幕があくと、筋は東京出発に始まる。
☆★…飯沼操縦士が川田義雄君、塚越飛行士が光利英君という配役で、
美しい踊子の萬歳を叫んで颯爽とスタートし、『神風』の翔けるコース。
 東支那海上、ハノイ、ジャム、印度奥地、ローマ、パリと場面は開けてゆき、砂漠の国では飯沼、塚越の二勇士が、情熱の女王に『好きになったのよ』と追っかけられたりする朗らかな場面もあって、めでたく霧のロンドンに安着する。
☆★…浅草味豊かな面白いレビューでミス花月、遠山房江、西條君江などの人気女優も活躍、観客席も『神風』声援熱が高潮して拍手拍手の連続に素晴らしい景気だ。

朝日新聞/1937年4月3日
朝日新聞/1937年4月3日

連絡飛行の行程になぞらえて、世界各地を巡る内容のようだ。
芝利英が「光利英」と誤記されているのはご愛嬌。(ご丁寧に「ひかりとしひで」とルビまで振ってある)

以上見てきたように、1936年後半に始まり、とくに1937年に入ってから徐々に川田・芝・坊屋の三人が吉本ショウでも目立つ活躍を見せてきている。
川田・芝の二人は主役も任されるほどになっていて、ショウの中心的存在といえるだろう。

しかし、彼らはこの現状に満足はしていなかったようだ。
吉本ショウ第一回公演からまもなく2年が経とうとしていた。
開始当初は新しい試みで話題を呼んでいた吉本ショウだが、徐々にマンネリ化してきていたのだ。


【参考文献】
『ヨシモト 復刻版』/吉本合名会社/吉本興業/1996
『にっぽん民衆演劇史』向井爽也/日本放送出版協会/1977
『ジャズで踊って』瀬川昌久/サイマル出版会/1983
『東京喜劇:アチャラカの歴史』原健太郎/NTT出版/1994
『吉本興業百五年史』吉本興業/ワニブックス/2017
「朝日新聞」/朝日新聞社
「都新聞」/都新聞社


(7/9UP)あきれたぼういず誕生!

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