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(35)密使:引抜き騒動①/あきれたぼういず活動記

前回のあらすじ)
後楽園スタジアムで4万人の歓声を浴びながら、益田喜頓はこの異常な人気ぶりに限界を感じ取っていた。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

【最後の放談会】

1939(昭和14)年3月10日。
あきれたぼういず四人は、浅草の料理屋に集い、雑誌記事のための放談会をやっていた。

『モダン日本』5月号に掲載された「呆れたボーイズ・春に酔えば」と題した記事がそれだ。
記事の表現を借りるなら「今や近代日本の演芸界に颯爽と現われ、スマートにして明朗な息吹を与えて今や人気の絶頂に在る」あきれたぼういず四人が、酒を飲み交わしながら自由勝手に語り合っている。

後楽園球場出演の熱気を語っていたのは、前回引用した通りだが、他にも女性観の話から浅草の話題まで賑やかに語らっている。
そして記事の最後は、こう締めくくられている。

川田  何んて言ったって、我々の自然発生的に結ばれた結び方と云うものは夫婦以上だ、女房と別れたって我々は別れっこないんだから。
芝  全くだ。丸坊主になってあきれた坊主になるまでもいとやせぬわいな。
坊屋  これまで我々は時勢の逆を行って来たから将来も逆で行こうぜ。それが社会の為になる。
川田  ブラボー!乾杯しよう!

(「呆れたボーイズ・春に酔えば」/『モダン日本』1939年5月号)

しかし皮肉にも、この放談会は、四人が集って語り合った最後の記事となった。

【密使】

この日の夜、坊屋、芝、益田のところへ一人の「密使」が訪ねてきた。

かつて吉本興業のレヴュー団、グラン・テッカール一座で共に舞台に立ったこともある、伴淳三郎である。
この時は新興キネマという映画会社に所属していた。
彼が持ってきた用件は、新興キネマに新たにできる演芸部にこないかという誘いだった。
つまり、引き抜きである。

新興キネマ演芸部の発足を報じる3月28日の朝日新聞記事、そのすぐ隣には吉本興業の人気漫才師、香島ラッキー・御園セブンが姿を消したという記事が出ている。
数日後、彼らは新興キネマ演芸部の所属芸人となって現れた。
さらに同じく漫才師のミスワカナ・玉松一郎も新興キネマへ移った。
新興キネマ演芸部は、吉本興業の人気芸人を次々と引き抜いていったのだ。

【引き抜きの背景:東宝vs松竹】

この引き抜きの背景には、東宝松竹という二大興業会社の攻防があった。
1936(昭和11)年、東宝は吉本興業と提携し、吉本が所有する映画館で東宝の映画を上映したり、吉本芸人達を東宝映画に出演させるなど結束していった。

さらに、日中戦争が長引くにつれ、映画の上映時間や製作本数が制限されていき、代わりにアトラクション(舞台実演)の比重が大きくなっていった。

そこで、東宝に対抗し、アトラクション時代を生き抜くために、松竹は系列会社である新興キネマに演芸部を新設して芸人を確保しようとしたのだ。
新興キネマの社長は永田雅一、演芸部の部長は鈴木吉之助だった。

【条件】

新興演芸部があきれたぼういずに提示した月給は、当時吉本でもらっていた金額からすると破格だった。

数字は資料によってまちまちだが、坊屋は「九十円の月給を一躍三百円にするってんだ」(『これはマジメな喜劇でス』)、
益田は「(ひとり)百円そこそこ」だったのが「四人で千円」になったという(『キートンの浅草ばなし』)。
また引き抜き騒動最中の『モダン日本』(1939年6月号)では、吉本での当時の月給が「川田が二百円、芝と坊屋が百五十円、増田が百二十円どころ」だったのに対し、新興演芸部では「一人あたま、四百五十円づつと言う約束」だと報じる。

また、金銭面だけでなく、ステージの内容についても四人は不満を持っていた。あきれたぼういず側からは、移籍にあたって以下のような条件を提示した。

 ①独立した『あきれたぼういずショー』をつくってくれること。
 ②一流のバンドをつけること。
 ③ダンサーを八人以上揃えること。

(坊屋三郎/『これはマジメな喜劇でス』)

新興演芸部側は、これらの条件をすべて飲み、さらに「ちゃんとした作者をつけて一本構成して、一か月つづける」という。
当時、舞台公演のプログラムは10日替り・月3本が普通だったが、新興演芸部では京都・大阪・神戸の劇場を巡演することで一か月同じネタを持ち回れるというのだ。
10日ごと(7日替りの時期もあった)のネタ作りに苦しんでいた現状からすると、夢のような条件だった。

芝  なにしろ、一週間替りでいつも追われてばかりいる。演し物のプランがきまるのが、初日の三日前で、あれあれと言っているうちに、もう、舞台稽古になってしまう。これでは、到底、我々の考えているようなものは、何日(いつ)までたっても出きやしないと思っていました。

(「あきれたぼういず朗らかに語る」/『スタア』1939年7月上旬号)

【川田の結婚】

「放談会」翌日、3月11日。

この日、川田は吉本ショウのタップ四銃士と言われた踊り子の一人、櫻文子と結婚式を挙げた。
場所は根津神社、仲人はオヤジ氏こと、吉本興業東京支社長の林弘高だ。

  呆れたボーイズの川田
  櫻文子と恋のゴールイン
 四人組のジャズ・コーラスで売出したあきれたぼういずの総帥川田義雄君と花月ダンシングチームのスター櫻文子嬢との恋が実を結び吉本興業常務林弘高氏の媒酌で、十一日午後三時根津神社で華燭の典を挙げた、両優共ちょうど舞台が休みなので、その夜熱海へ新婚旅行に出かけ、十四日初日の東横実演より夫婦仲よく出演する

(都新聞・1939年3月12日)

「密使」の伴淳三郎が訪ねてきた夜、川田だけいなかったのは、この結婚式の準備のためだったのだろう。
川田の不在時にやってきたのは、偶然か、それとも狙いがあってのことか。
何しろ、あの引抜き問題は僕はちっとも知らなかった」(「明朗ユーモア座談会」/都新聞・1940年8月26日)という川田がその話を聞いたのは、根津神社での挙式を終え、自宅で披露宴をしていた時だった。

この日の東京は、夕方から雲行きが怪しくなりはじめ、夜には豪雨になっていた。

 「ちょっとちょっと」と、坊屋三郎が僕を呼ぶんだ。何だろうと思って一緒に二階へ行くと、あとから益田喜頓、芝利英が、どかどかっと上って来る。
 「実は、新興から僕たちを引抜きに来ているんだが……」と声をひそめて、爆弾動議だ。
 「弱ったな。おれは、これから新婚旅行に出かけるんだぜ」
 「新婚旅行? そんな平凡なこと止せ」
 「平凡……?」
 「ぢゃァね、文ちゃん(愚妻の名)だけやっちゃえよ」
 「乱暴云うな。新婚旅行ってものはな」
 あきれたぼーいず共は、新婚旅行なんてしたことないもんだから、根っから同情がない。

(川田晴久「嵐の中の抱擁」/『青春タイムス』1949年12月号)

【あきれたぼういずの決断】

さて、大変なことになってはきたが、川田はその夜から新婚旅行を決行したようだ。
そして都新聞の報道通りなら、3日後の14日から舞台へ復帰している。

公演終わり、あきれたぼういず四人はいつもネタ合わせに使っている行きつけのそば屋の二階に集まり、会議が始まった。

 正直言って私の気持ちは大きく動いた。それというのも、「あきれたぼういず」結成以来の二年あまり、作家なし、独立自尊の精神で自作自演を続け、少なからず疲れはじめていたのだ。すっかり吉本をやめるというのではなしに、一年間関西に修行に出してもらうという方法はどうだろうか、と私は考えた。吉本生まれの「あきれたぼういず」ではあるが、このへんで少し違った水で苦労をしなおしてみたい、という思いもあった。

(益田喜頓/『キートンの浅草ばなし』)

数日後、川田はあきれたぼういずを代表して、新興演芸部長の鈴木吉之助のいるホテルを訪ねた。
そしてその夜、益田の家へ、新興から受け取ったという契約金の分け前を渡しに来た。3月20日頃のことだ。

契約金1万円を受け取ったということは、移籍を承諾したことになる。
しかし、問題はここからだった。

※「呆れたボーイズ・春に酔えば」放談会、伴淳三郎の訪問、川田の結婚式と新婚旅行等、一連の時系列については各参考資料を照らし合わせ、できる限り辻褄が合うように書いていますが、資料によって情報にかなり食い違いもあり、あくまで一つの推測であることをご了承ください。


【参考文献】
『川田晴久読本』池内紀ほか/中央公論新社/2003
『キートンの人生楽屋ばなし』益田喜頓/北海道新聞社/1990
『キートンの浅草ばなし』益田喜頓/読売新聞社/1986
『これはマジメな喜劇でス』坊屋三郎/博美舘出版/1990
『吉本興業の正体』増田晶文/草思社/2007
『松竹と東宝 興行をビジネスにした男たち』中川右介/光文社/2018
「あれやこれ・脱退騒ぎの真相」/『モダン日本』1939年6月号
「あきれたぼういず朗らかに語る」/『スタア』1939年7月上旬号/スタア社
「嵐の中の抱擁」川田晴久/『青春タイムス』1949年12月号/弘和書房
「朝日新聞」/朝日新聞社
「都新聞」/都新聞社
「京都日日新聞」/京都日日新聞社


(10/8UP)板挟みのぼういず

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