(前回までのあらすじ)
1943年以降、入院していた川田は復帰し、浅草花月劇場で「川田義雄一座」を旗上げ。益田も「益田喜頓一座(喜劇座)」で奮闘していたがやがて函館に戻り、製材工場長に。坊屋や山茶花もそれぞれに活躍していた。
※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!
【前線慰問映画】
1944年2月13日の東京新聞に、海軍の慰問映画として「芸能戦線版」を製作中だという記事が出ている。
記事によれば、海軍省委嘱によるこの映画は松竹、東宝、大映、吉本、日蓄の各社が協力して制作しているという。
スタッフ及び出演者については、
とあり、顔触れを見ただけでも豪華さがわかる。
その上、前線慰問用ということで事前検閲もなく、かなり賑やかな娯楽映画になったのではないだろうか。
試写室でも爆笑が起こったという。
出演者は皆、舞台や高座、撮影の合間に駆けつけて撮影に臨んだ。
原作を引き受けた十返が川田のファンだったので、かなり川田びいきの内容だったそうだ。
そして1945年1月には、やはり海軍慰問映画として制作された「勝利の日まで」が内地でも上映されている。
脚本は同じくサトウ・ハチロー、監督は成瀬巳喜男。
こちらも慰問用ということで、徳川夢声にエノケン、ロッパ、広沢虎造、エンタツ・アチャコといった贅沢な顔触れ、音楽もふんだんに盛り込まれた「演芸吹き寄せ映画」とのことだ。
こちらにも川田が出演している。
こうした慰問映画は、海を渡り、遠い戦地へ運ばれ、兵士たちを慰めていた。
どんな映画だったのか、観てみたいところだ。
【東京大空襲直後の浅草】
1944年11月から、B29が東京にも飛来、攻撃を繰り返した。
中でも被害が大きかったのが、1945(昭和20)年3月9日・10日の爆撃で、死者は10万人以上に及んだ。
東京大空襲である。
浅草では浅草寺本堂が全焼して仲見世も焼け、また六区の劇場も多くが焼失した。
坊屋も回想しているように、浅草の復帰は早かった。
まずは新宿等の焼け残った劇場で喜劇を再開、そして六区の劇場も次々と修理、建て直して再開していった。
そしてそんな浅草に、軍需工場の工員たちをはじめ多くの人が、笑いを求めて詰めかけていた。
この大空襲の直後あたりから、演芸娯楽の空気が変わっている。
国策を説き士気を高める「国民娯楽」たるべし、と縛られ続けていた縄がプツンと切れたように、ナンセンスで馬鹿馬鹿しいだけのアチャラカ喜劇が復活しているのだ。
空襲による直接的な被害があまりにも大きく、これ以上娯楽を抑えつけているほうがかえって逆効果であると判断されたのであろうか。
5月24・25日には山の手地域を中心とした大規模な空襲で、川田も家を焼かれている。
劇場はなく、衣食住もままならぬどころか、四六時中空襲の恐怖、死の危険と隣り合わせの日々。
そのような状況下でも人々は娯楽を求め、芸人たちはそれに応えた。
古川ロッパ言うところの「チンドン屋」を、川田と坊屋もやっている。
7月、東京新聞社の後援で行われた「戦う都民激励街頭慰問」に参加しているのだ。
芸人達を数組の班に分けて、都内各地で街頭公演をやっており、川田は赤羽へ、坊屋は灰田勝彦らと上野へ赴いている。
【八月一五日、終戦】
1945年8月15日の正午、ラジオから、終戦を告げる昭和天皇の声が全国に届けられた。
日中戦争、太平洋戦争と続いた戦時下の日々が終わった。
益田はこのとき、まだ北海道で工場長をやっていた。
1945年7月14・15日には函館にも空襲があった。
疎開していなければ、益田の母や妹もこの被害にあっていたかもしれない。
川田は、この頃共に浅草花月劇場で公演していた伴淳三郎とともに、上野で玉音放送を聴いている。
終戦直前まで東京で活動していた坊屋だが、この日は横浜の日吉にいた。
戦後日本を舞台に、ぼういずの新しい歩みが始まる。
【参考文献】
『これはマジメな喜劇でス』坊屋三郎/博美舘出版/1990
『キートンの人生楽屋ばなし』益田喜頓/北海道新聞社/1990
『夢声戦争日記 第五巻』徳川夢声/中央公論社/1960
「文壇裏街放浪記」十返一/『別册文藝春秋』1960年9月号/文藝春秋
「特集・私と八月一五日」伴淳三郎/『月刊自由民主』1975年7月号/自由民主党
『伴淳放浪記』伴淳三郎/しなの出版/1967
東京新聞/東京新聞社
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