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(27) 花月の人気者から六区の星へ/あきれたぼういず活動記

(これまでのあらすじ)
1937年、浅草でレヴュー「吉本ショウ」に出演していたメンバー達は、何か新しいことをやろうと「あきれたぼういず」を始める。これが好評となり、やがてメンバーは川田義雄・芝利英・坊屋三郎に益田喜頓を加えた四人組に落ち着く。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

 花月劇場には、川田義雄、益田喜頓、芝利英、坊屋三郎の「あきれたぼーいず」が舞台に立っていた。揃いの白い帽子、白い服の四人の姿は、そこだけ照明を浴びたように光り輝やいていた。

吉村昭『東京の戦争』

【日中戦争と軍事ムード】

1937(昭和12)年7月7日、盧溝橋事件が勃発。
あきれたぼういずの誕生と時を同じくして、時代は日中戦争へと突入していった。
新聞には「非常時」という言葉が目立つ。
映画や演芸もこの「非常時」に沿った内容が意識され、軍事色の強いテーマのものが増えていく。

吉本ショウのタイトルにも、8月1日からの「軍事読本」をはじめ「時局レビュー・祖国」「軍国更新賦」「防共時代」などといった文字が並ぶ。

吉本興業が発行していた雑誌『ヨシモト』は昭和12年7月号で廃刊となってしまった。
これは紙の制約と、編集要員の召集によるものだったらしい。
継続していれば、あきれたぼういずの活躍をもっと鮮明に知ることができたと思うと悔しいばかりだ。

こう書いていくと、国内は戦争ムード一色の、暗く厳しい生活に一変してしまったかと思われれそうだが、まだまだそうでもなかった。
検閲等の圧力はあるものの、むしろ軍需景気で国民経済は潤っており、劇場は満員、銀座には華やかな装いの女性達が闊歩していた。

この時期から、新宿帝国館での吉本ショウ公演はなくなり、浅草花月劇場一本となっている。

さて、結成後のあきれたぼういずの活躍を見ていこう。

【吉本ショウの救世主】

エンコ(浅草)の客の反応は早く、結成して間も無くあきれたぼういずは注目され始めた。
都新聞演芸欄の読者投稿コーナー「月曜壇場」に初めてあきれたぼういずの名前が登場するのは、1937(昭和12)年8月9日である。
これは「新鮮さを」と題した投稿で、吉本ショウに関する批評だが、

 尚最近吉本ショウの異色、あきれたボーイズの面々この日休演で何んとも云えないが全体に新鮮さ、溌剌さがほしい

との一文がある。
投稿全体としては「最近の吉本ショウは新しさに乏しく平凡である」という内容であり、直接あきれたぼういずについて語ったものではないが、この時点ですでに「吉本ショウの異色」として注目されていることがわかる。
さらに、あきれたぼういずが出演していれば、印象も違っただろうというニュアンスもある。

坊屋らが嘆いていたように、吉本ショウは低迷の時期を迎えていた。
そして観客もそれを感じていた。
9月1日の都新聞では「英断を以てショウをやめたらどんなものだろう」とまで言われている。

そこに出現したのが、あきれたぼういずだった。10月18日の月曜壇場「吉本ショウよ」にはこう書かれている。

 吉本ショウでは中川三郎が人気を呼び、あきれたボーイスが生誕した、然し彼等を何処まで伸ばさせるかは疑問だ、

…(中略)…

よき芸人が何処までついて行くか、増して興行界が一つの転換期に直面して、アトラクションの問題が話題に上る今日、よき芸人の養成、有線的なつながりが今後と共に必要とされるのではなかろうか、

…(中略)…

ショウを愛すればこそ僕等は吉本ショウのお偉い方々にあえて苦言を呈したい

吉本ショウの救世主として、あきれたぼういずに期待がかけられているのがわかる。

9月8日から、吉本ショウは港区の映画館・芝園館(しばぞのかん)で公演。
吉本系劇場を離れての公演はこれが初めてである。
このときの新聞広告に「あきれたぼーいず」の文字が出ているが、広告に「あきれた」の名が記載されたのはこれが初。
外部の劇場に出るにあたって「あきれたぼういず」の名前が売りになっているというのも、その注目度の表れだろう。

9月8日初日の芝園館での公演広告。当初、広告にはなかった「あきれた・ぼういず出演」の文字が、12日頃から追加されている。左は浅草花月劇場の広告で、中川三郎が出ている。
(都新聞/1937年9月14日)

 華やかな舞台の真中へ、マイクを一つおいて、それを囲んでタキシードの青年が四人、ギター、ハワイアン・ギター、ウクレレを持って、ダイナが忽ち小原節になり、ジャズ・ソングが浪花節に変り、ギターで殴り合いをするというのが吉本ショウの『あきれた・ぼういず』である。これはもう一つの立派なインスチチューションになって、吉本ショウのNo1である。

東海次郎「小レヴュウ果物籠」/『映画と演芸』1937年12月号

とはいえ、当時の吉本ショウで一番の注目はやはりアメリカ帰りのタップダンサー・中川三郎だった。
7月に一度、吉本との契約が切れた中川は自身のグループ「ハタアズ」を結成。
しばらく吉本を離れて活動していたが、9月からは再び浅草花月劇場に登場している。
ただし今度は吉本専属ではなく、フリーでのゲスト出演という形である。

その第一回目「タップ・ハタアズ」は初めて中川が構成・演出した吉本ショウで、それまでの吉本ショウにはなかった洗練された演出が評価され、その後の吉本ショウにも影響を与えたという。
12月頃にはムーラン・ルージュ新宿座出身の姫宮接子も加わり、二人のタップ・デュエットが呼び物となった。
(瀬川昌久『ジャズで踊って』に詳しい。)

【1938(昭和13)年前期】

年が明けて、1938(昭和13)年。
2月1日からの吉本ショウ「ブリュウ・コンサート」について、キネマ旬報に評が出ている。著者は「旗一岳」となっているが旗一兵の誤記であろう。

吉本ショウ
 二月一日から実施の興行時間統制の影響を受けて二十分に圧縮された吉本ショウ『ブリュウ・コンサート』は、その上姫宮接子の休演でいよいよ見せ場の乏しい淡々凡々のものになって了った。

…(中略)…

 殊に「あきれた・ぼういず」は四人で立案したものを舞台に掛けているだけに、いつもアイデアに血まなこになっているらしいが、これなどは充分な準備時間さえ有れば丸の内へ持って行っても成算のとれるヴォードビリアンズである。否、寧ろ浅草としては時に洒落過ぎた趣向があってここの観客の神経によくミートしていないくらいだが、ただ惜しいのは増田喜頓を除いて他の三人のパーソナリティが対比の面白味を醸し出していないことである。それとタキシードばかり着て現れるのも損だ。着想と扮装の飛躍でもっと感覚的に頓珍漢にならなければいけない。彼等の魅力は個々の芸ではなくアンサンブルのとれないアンサンブルにあるのだから、パアソナリティに於いても扮装に於いてもここによく着眼して効果を狙うべきであろう。

『キネマ旬報』1938年2月号

丸の内でも通用するという評や、一週間替りのプログラムに追われて準備期間が足りないことへの意見など、後のあきれたぼういずを予言するような鋭い批評がなされている。

また、3月1日からの吉本ショウ「ハンズ・クラップ」(これも中川三郎が手がけた)については、都新聞の月曜壇場に評が出ている。

 此処は日劇ショウの如く、ダンシングのチーム・ワークより個人芸中心主義の行き方を示している、随がって“あきれた・ぼういず”の如きは吉本ショウの方針上絶対的必要とされるエキパージュである、場面に応じて分散して現れ、集っては人を喰ったギャグ歌、ゼスチュアで観客を煙にまく、まことに愉しき連中と云える

都新聞/1938年3月7日

中川は3月中頃に吉本を去り、松竹で新生された「松竹楽劇団」に参加した。

中川が去ったあとの吉本ショウは、外部から呼んだスターの代わりに、ショウの中から育っていった芸人たちが健闘していくようになる。
この時期のあきれたぼういずについて、瀬川昌久は「メンバー四人の芸がようやく息が合ってだし物も脂が乗り、個性とチームワークとのバランスがとれて最も充実した時期を迎えた」と記している(『ジャズで踊って』)。

上記の評を見ても、中川が去る直前頃から、あきれたぼういずが吉本ショウに欠かせない存在として認められてきているのがわかる。

また、あきれたぼういずに期待の目を向けているのは、浅草花月劇場ばかりではなかった。
榎本健一や古川ロッパといった浅草で活躍していたスター達が、新たな興行街として発展した丸の内へ進出。
日本劇場や東宝宝塚劇場、有楽座等を拠点にするようになっていた。
浅草全体が、彼らに代わる新たなスターを求めているときだった。
新聞や雑誌での反応の早さからも、その期待が伝わってくる。


【参考文献】
『東京の戦争』吉村昭/筑摩書房/2005
『日中戦争下の日本』井上寿一/講談社/2007
『日本の戦時下ジョーク集:満州事変・日中戦争篇』早坂隆/中央公論新社/2007
『これはマジメな喜劇でス』坊屋三郎/博美舘出版/1990
『ジャズで踊って』瀬川昌久/サイマル出版会/1983
『吉本興業百五年史』吉本興業/ワニブックス/2017
『キネマ旬報』1937年2月号/キネマ旬報社
『映画と演芸』1937年12月号/朝日新聞社
「あきれたぼーいず座談会」/『映画情報』1939年新年号/国際情報社
「都新聞」/都新聞社


▶︎次回(8/13更新)名古屋・京都へ進出!

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