(73)坊屋のその後/あきれたぼういず活動記
(前回までのあらすじ)
1953年頃にあきれたぼういずは解散し、それぞれ個人で活動していくことに。
そして1957年に川田晴久が、1971年に山茶花究が、1993年には益田喜頓が旅立った。
※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!
【渡辺邦男監督】
益田が菊田一夫と出会ったように、坊屋にも出会いがあった。
早撮りの名手として知られる渡辺邦男監督である。
あきれたぼういず当時から渡辺に気に入られていた坊屋。
1952年の東京新聞では
「ここ二三年来渡辺邦男監督に可愛がられ一家の扱い、その作品には必ず出ている」(8月5日)
と書かれている。
同記事で坊屋は先約の映画を断ってまで渡辺の作品に出ようとしており、坊屋も監督を慕っているのがわかる。
(このときは結局、渡辺が代役を立てて譲っている。)
この頃、渡辺が東映に移籍、同時に坊屋も東映と準専属の契約を結んでいる。
そして1955(昭和30)年に渡辺が新東宝へ移り製作本部長となると、翌年坊屋も新東宝の専属となって活躍した。
坊屋は近江俊郎監督作品にもたびたび出演しているが、同監督「新妻の実力行使」(1957)では主演を果たし、一人二役をこなした。
しかし、テレビ時代の到来もあり、映画界は徐々に斜陽になってきていた。
喜劇映画が続々と作られる時代は終わりつつあった。
1961年、新東宝が倒産。坊屋はフリーとなった。
【キャバレー廻り】
坊屋はそこで一念発起、1963(昭和38)年、新宿にお茶漬け屋「ぼうや」を開いた。
ところが、芸人仲間たちが顔を出すたびにタダでご馳走するのでみるみる赤字がふくらみ、3年で閉店。
借金だけが残った。
お茶漬け屋のぶんと、加えてギャンブルでつくったぶん。
借金を返済するため、坊屋はウォッシュボードだけを相棒に日本全国のキャバレーを回る決心をした。
坊屋いわく「一生のうちの、一番の苦難時代」であるこの日々は、約10年続いた。
芸を目当てではないキャバレーの客、しかも坊屋のこともあきれたぼういずも知らないホステスや客を相手にして、30分の間を持たせなければならない。
しかし、ストリップ劇場から実力ある喜劇人が生まれていったように、この苦難の日々は得るものも大きかったようだ。
このキャバレー回りで少しずつ借金を返していった坊屋。
そんな中、キャバレーで知り合ったとあるレコード会社の社長からレコードの話を持ちかけられ、自身で作詞作曲も手がけた「おしっこしたくなっちゃった」を制作。
庶民的な哀愁漂う名曲である。
B面は「坊屋三郎の秋田音頭」、後半でウォッシュボード演奏をひとしきり聴かせてくれたかと思うと唐突に終わる、こちらも傑作だ。
一度はオイルショックの影響で発売の話が流れてしまったが、漫才師コロムビア・トップに相談したところコロムビアに紹介してくれて、1974(昭和49)年、無事発売となった。
これが借金返済の足しになれば……と思っていたとこへ、それを吹き飛ばすような出来事が起きる。
【クイントリックス】
1974年、松下電器(パナソニック)からテレビCMの出演以来が舞い込む。
カラーテレビ「クイントリックス」の宣伝だ。
テレビを挟んで向かい合った大柄なメキシコ人、トニー・ダイヤの「クイントリックス」の流暢な発音を、小柄な坊屋が「英語でやってごらんよ」「外人だろアンタ」と指摘して日本人的カタカナ英語の発音で訂正する。
いわば、日本人の英語コンプレックスをユーモアで見せた内容で、これが大ブレイクした。
当時ほとんどテレビ露出のなかった坊屋がなぜ突然起用されたのか?
CMを手がけた電通のクリエイティブ・ディレクター小田桐昭がのちにその経緯を書いている。
小田桐が指定したという条件は、まさに渡辺邦男の喜劇映画に出てくる坊屋三郎のキャラクターそのままだ。
久世光彦は、以前スクリーンで観ていた坊屋のことを思い出したのかもしれない。
CM撮影時、コンテ通りにやるもののうまくいかず、ディレクターが
「坊屋さん、カメラを廻しっぱなしにするから、なんでもいいから勝手にセリフを入れてください」
というので、坊屋がアドリブでやったのが例の「訛ってるよ…」だったそうだ。
渡辺監督映画の経験や、キャバレー回りの苦労がアドリブの強さに繋がった面もあるかもしれない。
坊屋はあきれたぼういず時代を凌ぐほどの人気者「クイントリックスおじさん」としてカムバックを果たし、テレビや週刊誌に盛んに登場するようになった。
また、家電不況にあえいでいた松下電器にとっても救世主となり、クイントリックスは社の主力商品に。
クイントリックスにちなんだレコードも発売したり、松下電器の販売店を廻ってイベントをやったり、大忙しだった。
さらには慰労もかねて海外CM撮影旅行。
このときの旅行先がレコード「クイントリックス音頭」に歌い込まれている。
坊屋の借金はこれですっかり返して、お釣りがくるくらいだった。
以降、「ウルトラマン80」の教頭先生役など、テレビにも出演。
また、大林宣彦監督の映画作品にも晩年まで度々出演した。
【歳はとってもボウヤです】
坊屋は柳家三亀松の後を受けて東京ボーイズ協会の会長に就任。
この頃、組織名が「ボーイズバラエティ協会」に改められた。
のち、会長を灘康次に譲ってからは、名誉会長としてボーイズの後輩達の面倒をみた。
また、テレビや雑誌の演芸特集にたびたび登場し、あきれたぼういず当時のことを語ってくれている。
ボーイズを育てるだけでなく、坊屋は愛する浅草のためにもその熱意と行動力を発揮している。
1983年に映画「帰ってきた浅草」、続けて「江戸だ祭りだ浅草だ」を自費製作。
坊屋の目から見た、四季折々の浅草の祭り、それを取り巻く情緒あるれる風景や人々など……。
あきれたぼういずの時代からすっかり変わってしまった浅草になお残る、浅草風景を捉えた記録映画。
浅草への坊屋の恩返しだ。
その言葉通り、坊屋は90歳を超えてもウォッシュボード片手に舞台に立ち続けた。
2002(平成14)年5月24日、体調を崩し病院へ向かう途中バス停で倒れ、翌日5月25日に心不全でこの世を去った。
92歳、あきれたぼういずでは一番の大往生だった。
そして最後までヴォードビリアンとして生き続け、「あきれたぼうい」であり続けた。
坊屋の座右の銘は「逆境を肥やしに」。
彼の92年間の力強い生き様が表れている。
【浅草に刻まれたあきれたぼういずの記憶】
浅草寺の境内に、「喜劇人の碑」がある。
1982年、逝ける浅草喜劇人を偲び建立されたもので、最初に名前が刻まれているのが「川田晴久」である。
そして「山茶花究」「益田喜頓」の名前もある。
また、浅草公会堂の入り口前には、浅草にゆかりのある芸能人の手型・サインを刻んだプレートが並べられた「スターの広場」がある。
ここには、坊屋三郎と益田喜頓の手型・サインが飾られている。
今ではひょうたん池も埋められ、池の前にあった、浅草花月劇場もない。
しかし、浅草東洋館(戦前の三友館、戦後はフランス座)では今でもボーイズ・バラエティ協会の芸人たちがステージに立ち、客席に笑いを届け、浅草を活気づけてくれている。
いわゆる「ボーイズ」に定義される芸人は数少なくなってしまったが、ボーイズの精神はさまざまな芸人、ミュージシャン達の中に広がり、受け継がれていると感じる。
そしてその元祖である「あきれたぼういず」は、今なお新鮮な魅力を持って私のような新しいファンを驚かせ、楽しませてくれる。
【参考文献】
『これはマジメな喜劇でス』坊屋三郎/博美舘出版/1990
『広告批評』1984年9月号
『アサヒグラフ』1995年12月1日号
NHKアーカイブス「あの人に会いたい」No.657:坊屋三郎/https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=D0009250657_00000
東京新聞/東京新聞社
あきれたぼういず活動記の連載分は今回で完結となります!
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ボリューム満点の書籍版も近日発売予定です!
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