(56)復興は浅草から/あきれたぼういず活動記
(前回までのあらすじ)
太平洋戦争が激化する中、あきれたぼういずやミルク・ブラザースは解散。メンバーはそれぞれ個人で活動していた。岡村龍雄・芝利英は戦死。
そして1945年8月15日、終戦を迎える。
※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!
▶︎今回は1945(昭和20)年8月15日の終戦以後、年内の活動について。
【戦後を生き抜くための娯楽を】
戦時中も、終戦後も、演芸娯楽が大衆を励まし慰めるために必要とされていることは変わらない。
東京新聞によれば、8月22日から映画の上映、演劇興行などを再開、ラジオでも慰安プログラムを放送開始したようである。(ちなみにラジオ慰安放送の第一回目は糟谷耕象の詩吟だった。)
興行関係者からの話では、芝居の台本は再検閲をする必要があるため再開まで日数がかかるだろう、映画は旧作で検閲済のものなら上映できるのではないか、寄席や舞踊、音楽会は早く再開できそうだということである。
8月23日の東京新聞では、しばらく無くなっていた演芸欄(各劇場の公演を案内する欄)が復活している。
ただし、多くの劇場は空襲の被害を受けており、掲載されていなかったり、「近日開場」となっているところも多い。
しかし、東京大空襲後の何もない浅草へ人々が詰めかけたように、終戦直後もやはり浅草には心の慰安を求める人々が押し寄せていた。
10月には、東京新聞に興味深い記事が出ている。
「舞台から観た客席」という見出しで、舞台に立つ芸人側から見た客席の様子を新宿・浅草・築地の三人の芸人に尋ねている。
終戦の前後での客の笑い方の変化、客席の雰囲気などを芸人らしい鋭さで分析しており興味深い。
浅草の清水金一の話を紹介してみよう。
戦争が終わったとはいえ、日々の暮らしもままならない状況の中で娯楽を求め浅草へ集う人々。
娯楽がいかに心の支えとなっていたかがわかる。
さて、終戦直後のあきれたぼういず達の様子を見ていきたい。
【終戦直後の川田】
東京新聞の演芸欄がまだまだ小さく、情報が限られるので定かではないが、8月15日の玉音放送を伴淳三郎と共に聴いたという川田は終戦後も伴と共に、浅草花月劇場に出演していたのではないかと思われる。
演芸欄では浅草花月劇場に「伴淳一座と淡谷のり子」が出ている。
10月からは、川田義雄一座として浅草花月劇場に出るはずだったが、持病の脊髄カリエスが再発。
徳川夢声の紹介で愛知の医者の治療を受けたのち、千葉の自宅に戻り、休養を余儀なくされる。
【山茶花一座の奮闘】
なんといっても、終戦後一番に活躍が目立つのは山茶花である。
彼は終戦後すぐに「山茶花究一座」を旗上げし、9月11日には浅草松竹劇場で旗上げ公演をしている。
演目は小澤不二夫作「青年帰る」小山田静枝構成「をさなき日」舟場久太郎脚色「歌ふ白野弁十郎」で、「舟場久太郎」は山茶花のペンネーム。
どの一座も台本不足で戦前の古い本を使い回す中、山茶花究一座だけは毎週全て新作で公演していたという。
その意気込み、熱意にはもの凄いものがある。
10月21日の公演広告の隣には、賞金付きで脚本募集の広告も出している。
【坊屋と日劇再開】
11月22日、修復を終えた日劇が開場。
その第一回公演「ハイライト」に坊屋三郎の名前があるのが、戦後最初に確認できる坊屋の名前である。
他に出演は灰田勝彦・晴彦兄弟、笠置シヅ子、岸井明など。
日劇のショウ「ハイライト」と併せて上映されている映画は「歌へ!太陽」で、これは川田が出演している。
戦後最初に封切られた東宝映画であり、最初の川田出演作でもある。
撮影自体は戦時中から行われ、戦後手直しをして公開された映画で、レヴュー劇場を舞台にした音楽喜劇となっている。
新聞評では「十年前のアメリカのレヴュー映画そのままでその上セットは貧弱…」などとあまり良い感触ではないが、唯一「川田の達者さ」が取り柄であると評されている。
【益田の近況】
北海道へ帰っている益田はどうなったのだろう。
10月30日の東京新聞「文化人の消息」欄に、戦後初めて益田の名前が登場。
「終戦と共に製材工場長をやめ近く舞台に復帰」とある。
益田は北海道で芝居好きの面々を集めて小さな劇団を作っていたが、アトラクションに出てほしいと呼ばれ、新潟へ。
新潟に疎開していた演出家の山本紫朗から、日劇公演「メトロポリス」へ出ないかと誘われたのを機に、上京して本格的に舞台復帰することにしたようだ。
【消息不明の人たち】
こうして、少しずつボーイズ達が舞台に戻り始め、新たな活動の一歩を踏み出している一方、戦地に行ったメンバー達は戻ってきてはいない。
11月28日の東京新聞では「外地に消息不明の人たち」という見出しで、召集や慰問などで海外に行ってその後の消息がわからなくなっている芸能人たちの身を案じている。
岡村については、この記事のひと月ほど前、10月11日の徳川夢声の日記に「岡村君は南方の海で戦死しているとのことだ」と書かれており、記事と前後して戦死の報せが届いていたようだ。
岡村と同時期に出征した有木山太は未だ、シベリアへ抑留され帰国が遅れている。
【参考文献】
『川田晴久読本』池内紀ほか/中央公論新社/2003
『夢声戦争日記』徳川夢声/中央公論社/1960
東京新聞/東京新聞社
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