(23)あきれたぼういず誕生①/あきれたぼういず活動記
※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!
【吉本ショウのマンネリ化】
雑誌『映画情報』の1939(昭和14)年新年号に、「あきれたぼーいず座談会」が掲載されている。
あきれたぼういずの絶頂期ともいえる時期のもので、参加メンバーはあきれたぼういず四人のほか、吉本ショウのダンサー櫻文子・賀川龍子・棚木みさを、当時ショウの文芸部にいた旗一兵、雑誌記者側で可東みの助・田添一。
あきれたぼういずの結成前から現状、将来の展望まで語り合っており、非常に興味深く貴重な記事である。
現在、国立国会図書館のデジタルコレクションでも閲覧できるようになっている。
さて、この中で、あきれたぼういずを結成する前の日々についてこう述べている。
皆、吉本ショウの舞台が徐々にマンネリ化してきていることに不満をためていたのだった。
【あきれたぼういず結成】
やがて「オレたち、楽器ができる連中だけで集まって、一景もらってなにかやろうじゃないか」という話になり、劇場の責任者にかけ合った。
そしてショウの中の一景をもらい、自分達で考えた演し物をやらせてもらえることに。
そこでギターを弾いて、当時の流行歌(美ち奴の「あゝそれなのに」だったとの話もある)にオチをつけたものをやったところ、これが大いにウケた。
これが、「あきれたぼういず」のはじまりだ。
「あきれたぼういず」という名前も、元はショウの一景のタイトルとしてつけられたものらしい。
吉本ショウでは他にも、芝利英と棚木みさをで「ハリキリコンビ」、岡村龍雄と櫻文子で「ラッキーコンビ」、このラッキーコンビに歌手のやゝま良一を加えて「モダントリオ」など、さまざまな組み合わせでの一景ものをよく出している。
川田と芝と坊屋の三人で「極楽トリオ」と称されていたこともある。
あきれたぼういずもその一環という扱いだったと思われる。
【結成日はいつか?】
初期にはメンバーも固まっておらず、六人組で紹介されていたこともある。
そのため、はっきりとした「結成日」といえるものはなく、徐々に出来上がっていったといえる。
先述の「あきれたぼーいず座談会」でも、結成日についての質問に
と回答している。
『川田晴久読本』内、「川田義雄の半生期」で瀬川昌久は
「五月二十一日初日の第五十八回『ブリュウ・ジャケット』の第一二景のタイトルが「あきれたぼういず」となっていて、川田、芝、坊屋、原伸三、三樹高雄が出演している」
と書いており、これがおそらく「あきれたぼういず」という言葉が確認できる一番最初の公演である。
この第58回吉本ショウ「ブルージャケット」については、1937(昭和12)年6月号の『ヨシモト』誌に批評文が投稿されており、ここでも「あきれたぼういず」が確認できる。
「ようやく……マンネリズムを脱却している」という書き方からすると、これが初登場ではないようだ。
また、川田が「ジャズ・ソングのベースに対する浪曲」つまりあきれたぼういず以降の十八番芸となるギター浪曲をすでに披露しており、しかも高く評価されているのは興味深い。
翌7月号の『ヨシモト』では、先述した「六人」のあきれたぼういずが写真入りで紹介されている。
この写真はCD「楽しき南洋」ケース内側にも使用されているのでここでも見ることができる。
「自分達で楽器を弾きながら、歌にギャグを織り込む」というのが、あきれたぼういずのこの頃からの持ち味だったようだ。
日本で最初のコミックバンドと称される所以である。
歌も司会も芝居もできる上に、グラン・テッカール時代からギターを使ったギャグを考えていたという川田をはじめ、ダンサーでありつつ益田とともにコントやギターも研究していた芝、大学時代からオペラからタップダンスまで本格的に学んできた坊屋、そんなオールラウンダーな面々だからこそ生み出せたスタイルだ。
【参考文献】
『これはマジメな喜劇でス』坊屋三郎/博美舘出版/1990
「ちょいと出ましたあきれたぼういず」坊屋三郎/『広告批評』1992年10月号より/マドラ出版
『ヨシモト 復刻版』/吉本合名会社/吉本興業/1996
「あきれたぼーいず座談会」/『映画情報』1939年新年号/国際情報社
『にっぽん民衆演劇史』向井爽也/日本放送出版協会/1977
『ジャズで踊って』瀬川昌久/サイマル出版会/1983
『吉本興業百五年史』吉本興業/ワニブックス/2017
「都新聞」/都新聞社
(7/16UP)あきれたぼういず、4人組に