私の昭和歌謡128 こんにちは赤ちゃん 1963
赤ちゃんができない二人の心中は神も仏もすべて敵なり
結婚して6年間、子供ができなかった。
29歳で結婚したから、早く産みたいとは思っても、私はブラックな中学校勤務だった。毎日くたくたで遅い。夕飯を作るのさえ大変だった。
私は「これは、しなければならない」と思い込む癖があって、夕飯はその1つだったから、結構辛かった。
「弁当買ってきて、今日これね、と笑いながら言えばいいんだよ」
「今日の夕飯は作ってねー、でいいじゃないか」
と、ダンナは言うけれど、なかなか馴染めない。
今は大きな顔して、もっと要求してますがw
3年ぐらい経って、不妊治療医に通った。血液型がO型同志だと、着床した異物を攻撃してしまうのかもしれないという説を聞かされた。
流産も経験した。突然血が流れるのは、かなり悲しい出来事だ。
嬉しいからと言って、周囲に、特に父母に「おめでたでーす」なんて軽々しく言わないほうがいい、と学んだ。
で、2年間ぐらいがんばって、できた!!すぐに入院した。
そこは6人部屋で、同じ治療の仲間がいた。11月に入院して、なんか人生ですごく楽しい入院だった。隣の県の病院だったから、主人は、毎日曜日にお土産を持って来てくれた。
私の楽しい合宿生活の仲間たち。不妊治療の妊婦たち。
そして、必ず日曜日に、自分で育てたブルーのバラや、うなぎ弁当、小さなクリスマスツリーを持ってきてくれるダンナ。
ダンナの献身を、すごく羨ましいと同室の妊婦たちは言う。当たり前のことが、献身と言われたのも驚きだった。夫婦はこんなものだろう、と思っていたけれど、それは私の大きな過ちだった。
ダンナがこんな話をしたことがある。
夫婦は会社の共同経営者のようなもの。お互いが努力して協力し合えば長続きする。そう、努力は大切だ。
愛があれば努力するだろう、というのが若い私の考えだった。もう68歳の私だけれど、ダンナの努力はまだ続いている。大した男だ。
こんな姿勢を見続けていれば、怠け者の私も気づく。努力しようって。
クリスマスを過ぎて、正月前に退院した。赤いビートで家に帰った。
真っ赤なビートは、赤ちゃんが生まれたら、運転免許が必要だろうと、無理やり免許を取らされて、ご褒美に買ってくれた。どこへ行くにも歩きだったのが、生活の時間と空間が大きく広がった。世の中にはこんなに便利なものがあるんだ。
35歳で知った。
36歳の誕生日から1ヶ月後、私は出産した。
高齢出産だったけれど、自然分娩で、早朝から午後7時過ぎまでうなって産んだ。
性別はわかっていた。ダンナしか知らなかった。
義父がやってきて言った。
「男の子だ。よくやった。」
そうか、私は老舗の4代目を出産したんだ。
分娩室で生まれてすぐの赤ちゃんを見た。しわくちゃだった。何の動物の子どもだろう?と思うような様子だった。
その夜、一回トイレに起きた。ものすごくお尻が痛くて、壁に寄りかかりながら歩いた。いやあ、出産は大変だ。ただ、息子が32歳の記憶だから、もう曖昧w
さて、病室へ赤ちゃんのベッドが運ばれて、私の赤ちゃんがやって来た!
なんて可愛いんだろう。おいこら、まだ見えないのか?
昔流行った「こんにちは赤ちゃん」を口ずさんだ。
私は、梓みちよの歌を小学校1年生の時聞いた。明るくて軽い歌詞とメロディーがあんまり好きじゃなかった。実感も(当たり前)全くなかった。
だいたい「はじめまして。私はママよ。」がくすぐったくて嫌だった。ママなんて自分でも言わないし、自分をママなんて呼ばせたくない。
そして「小さな手、つぶらな瞳」も嘘だった。
小さかったけど、同じ日に生まれた女の赤ちゃんの手に比べると、息子の手はむっちりとして頑丈だった。
そして、つぶらな瞳って子鹿のような?そんな瞳には、3ヶ月後ぐらいしなくちゃならなかった。
「ふたりだけの愛のしるし」って言う歌詞にも抵抗があった。
この歌詞は、パパとママとの各家族の歌のような感じがした。きっとこの歌詞では、女の子が生まれたんだろうな、とか思って、病室で口ずさんだ。
その後の子育ては・・・ほとんどダンナがやったw
私は遊び相手だった。
小学1年生、36歳、68歳の「こんにちは赤ちゃん」の思い出。
【参考資料】
【前回の記事】