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私の昭和歌謡116 翼をください 1971
15歳カバーバンドはPPMなのにラストは翼をください
中学3年生。
同級生の男子から、バンドのヴォーカルに誘われた。PP&Mのカバーだった。ピーター、ポール、マリー。もちろん私がマリー。
どうして私に頼んだのか?
文化祭で英語弁論大会の報告発表があって、その時、私の発音を聞いたからだと言った。
当時は、みんな、ジスイズアペンの発音だったから、聞いて上手だったというより、教師が選んだ発音の子だったからなんだろう。
弁論大会というが、それは市主催の第1回だった。だから賞もないし、自分で文章も書かない。教科書の中の物語を読むだけだった。
私が読んだのは「ヘレン・ケラー」の物語だった。
父は、英語が少しは話せたから、毎日聞いてくれた。間違った発音を直してくれた。女の子だから、キャッチボールはできないけど、これが父との思い出のキャッチボールだった。
発音を買われた私が、バンドで初めて歌ったのは
「悲惨な戦争」(CRUEL WAR)
目標は、もちろんコンサートだ。場所は、家から3分ぐらい歩いた公民館になった。だから、自治会会合のイメージはぬぐえない。
メインの曲は「悲惨な戦争」だから、共産党支部事務所からベトナム戦争のパネル写真を数枚借りてきて、臨場感を出した。
マリー(私)の家は、小デパート内の食堂経営。
ピーターはカメラ屋。ポールは自転車屋。
ピーターは歌しか歌えないので、ギターはポール。
会社員の息子が12弦を受け持った。
ウッドベースは外科医の息子。血を見るのが怖いんで結局、ジュリアードで音楽関係に進むはずが、登山で死んだ。
最後は、唯一オープンリール録音機を持っていた、漬物屋の息子がマネージャーをやった。
コンサート1曲目は、練習を重ねた「悲惨な戦争」だ。
そして、ラストは・・・
当時流行っていた「翼をください」だった。
(原稿用紙2枚で、やっと本題ww)
誰が決めたのか思い出せないが、この曲順は素晴らしかった。
PP&Mの曲と「翼をください」は見事にひとつになった。その時代のアメリカと日本のフォークソングが見事にマッチしたと感じた。
PP&Mのアレンジは独特で、低音のマリーに合わせてか?しばしば主旋律が入れ替わり、マリーがハモったりしていた。
中学生の私には、合唱でソプラノが主旋律を歌うのが普通だと思っていたから、主旋律という“曲の主張”を歌う人物が入れ替わることが妙に新鮮だった。
だから「翼をください」で、はじまりは女声だけれど、サビは1番が男声、2番が女声になるアレンジも、すんなり受け入れらた。
論理的でなく、歌う体験によって、曲というものを評価できるようになっていたんだ。
グループ「赤い鳥」は、ヘンな編成のバンドだった。
赤い鳥と聞くと、私はすぐに鈴木三重吉の子供の雑誌を思い出す。このグループ名もそこから付けたという。
2つの男女のグループが合わさって互いに競い合っている感じだった。
2人の女性ヴォーカルの声質が全く違っていた。
男女4人は全員がメインヴォーカル可能なレベルの歌唱力だった。
それにベースとドラムの2人が便宜上加わっているという。
数年後、やっぱりな、と納得。
「赤い鳥」は、「紙風船」と「ハイファイセット」に分かれた。
(「ハミングバード」については詳しく知らない)
私は山本潤子の歌唱が好きだった。中音から高音がすこぶる美しく安定していたから。
かたや、平山泰代は、キラキラした響きのある声だけれど、フォークより歌謡曲的だと思っていた。そして裏声は音程を正確にとるのは難しく、フォークのようなハモりには苦労する。
中学生の私は、高音が出ない山本タイプだったので、「翼をください」の2番も主旋律でなく下をハモった。
さて、私たちのコピーバンドは1回目のコンサートを大盛況(自画自賛)のうちに終え、私は音大へ進むためにバンドをやめた。
公立中学校の音楽科教師になった私は、定年と再任用を経て、現在非常勤で教えている。
中学2年生の教科書には「翼をください」が載っている。
生徒と一緒に、思い出と一緒に、私も歌う。
雑談。
録音と鬼のマネージャーは、現在老舗漬物問屋3代目。
コンサートをやると言ったのも、
公民館を借りたのも、
共産党から写真を借りたのも、
その後バンドを成長させて、
企画会社を作ったのも、彼の青春の楽しい取り組みだった。
当時彼は「この曲は囚人の曲だ。」とつぶやいた。
シベリアやショーシャンクのような期限なしの囚人の気持ちなんだ。と、鬼のマネージャーは「サビの開放感がお前たちには足りなーい」と何度も練習させた。山上路夫&村井邦彦が「赤い鳥」をプロデュースしたように。
私たちのバンドには、バンド名がなかった。だから、みんな勝手に「(自分の愛称)バンド」と友人に言っていた。
目の前に、鬼マネージャーが座ってる。相変わらずの頑固者。
私のダンナである。
【参考資料】
【前回の記事】