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笑顔で写真に写った日
写真を撮ることが好きです。カメラを持って歩くだけで、わくわくしてきます。
そしてフィルムではないのをいいことに無駄に何枚も撮ってしまって、後で面倒くさがりながら整理するのはいつものこと。
でも、写真を撮られるのは嫌いです。
自分に自信がないから、笑われたくないから、見られたくないから、鬱陶しいから、気恥ずかしいから……、なのでしょうか。
理由は自分でもはっきりとは分からないのですが、小さい頃から嫌だったように思います。
そのためか、学生時代も会社に入ってからも集合写真の類を撮られる機会は度々ありましたけど、僕はいつも無表情でした。
カメラマンの方が「では、次は笑顔で!」などと声をかけても、その手には乗らんぞとばかりに無表情。
自分が写った写真など見たくもないので確かなことは言えませんが、周りの人が笑顔でいる中で一人だけ真顔でいる様は、さぞや悪目立ちしているに違いありません。
別に魂を抜かれるわけでもないのですから、少しくらい笑えばいいものを何故か変に意固地になっているようです。
笑ったら負け、みたいな。
そんなわけで、写真を撮られることはこの先もずっと嫌いなままでいると思っていました。
ましてやカメラの前で笑顔を浮かべるなんて、考えたことすらなかったのです。
***
「すみません、写真を撮っていただけませんか?」
愛用しているカメラで嬉々としながら写真を撮っていましたら、そんな言葉を掛けられました。
声のした方へ目を向けてみれば、小さなカメラを持った老紳士とその奥方様の姿が。
一瞬頭に浮かんだ「なんのはなしですか」という言葉を隅の方に追いやりながら、僕は多分笑顔で答えました。
「はい。わかりました」
11月に行ってきました会津若松への一人旅、その最終日のことです。
よく晴れて雲一つない青空の下、目の前には白壁と赤瓦の対比が美しい鶴ヶ城があります。
前日までの、迷いや憂いで揺れていた気持ちは嘘のように消え去っていて、バスに揺られて移動しているときからずっと、晴れやかでした。
歴史にはあまり興味はなくて、“何となく”で旅行先に選んだ会津若松。
お城が見られればいいや~くらいの軽い気持ちでいたにもかかわらず、実際に目の当たりにするとなかなかどうして格好良くて、ずっと見ていたい気がするのです。
当然ながらシャッターを切る手は止まらず、少しずつ設定を変え構図を変え、それこそ同じような写真を何枚も撮っていました。
鶴ヶ城へはこの前日も訪れていたのですけれど、それでも見飽きないのが凄いところ。
そんな折に老夫婦に声を掛けられ、初めて“他の人の記念写真を撮る”という経験をすることになったのです。
生まれてこの方、この類の頼まれ事をしたことがない僕は、嬉しさ半分戸惑い半分でおっかなびっくりカメラを受け取り、1枚だけ撮影しました。
お城全体を入れたらお二人の足が見切れてしまって、ならば全身を入れてもう1枚撮り直せばいいのですがそんなことを実行できる余裕も無く、とりあえず確認だけお願いした次第。
それで特に苦言を呈されることもなく安堵したのも束の間、ご婦人の方から「よかったら撮りましょうか?」とのご提案。
反射的に「大丈夫です」と言ってしまったのですけど、すぐに思い直して「やっぱりお願いします。せっかくなので」と答えたことには、誰よりも僕自身が驚きました。
だって、写真を撮ってもらおうとするなんて、まずあり得ないことでしたから。
あるいは。
もしかしたら、羨ましかったのかもしれません。
観光地でもどこでも、近しい人同士で一緒に写真を撮っていることや、誰が見てもそこに行ったのだとわかる証があることが。
一人の観光客として、僕も同じようなことをしてみたかったのでしょう。
というわけでこれ幸いとばかりにカメラを渡して、先ほどお二人が立っていた辺りまで移動し、向き直ります。
柄にも無く衣服なんかを少しばかり整えたり、撮ってもらうのに無表情なのもどうかと思い、軽く笑顔を浮かべてみたり。
しばし待ったのち、撮れたようなので今度は僕が写真を確認する番です。
受け取ったカメラの背面液晶に表示されたのは、鯱が見切れた鶴ヶ城と僕の全身がしっかり写った1枚でした。
拡大して見ても、しっかりとピントが合っていることが分かります。
ついでに怖いもの見たさで自分の表情も確認しましたら、なんと笑っていました。
そりゃあ、笑顔を作ったのですから笑っているのは当然なのですが、僕はこんなにも自然に笑うことができたのか、と再びの驚き。
何だか嬉しくなりました。
お二人にお礼を言って別れた後も、その後はしばらく頭から離れなかったので、よほど印象深かったようです。
それはそれとして。
もう1枚、全身を入れて撮ってあげられたらよかったなと、後になって悔やむのでした。
あのお二人が何故、僕に声をかけてきたのかは分かりません。
たまたまそこにいたからか、お互いにキヤノンのカメラを使っていたからか、単に一人でいたからか。
その答えはきっと見つかることはないのでしょうけど、一つだけ分かったこともあります。
それは、写真を撮られるのもそこまで悪くなさそう、ということです。
楽しい旅行を彩る、温かな思い出の一つになりますからね。
旅行した記憶は頭の中に残りますし、あれこれ撮った写真がスマホやPCの中に沢山あります。
それさえあれば旅の記録としては十分だと、自分が写っている必要はないと、ずっと思っていました。
ふとした瞬間に思い出したり、たまに写真を見返したりして楽しさを反芻する、ただそれだけですから。
でも時間が経つ毎に記憶はどんどん薄れていきますし、写真にしても自分で撮ったはずなのに、そのときの感情や情景を思い出しにくくもなってくるのです。
楽しい、嬉しい、感動した、綺麗だ、美味しい。
プラスの感情がたくさん湧いていたはずなのに、気付いたら遠い過去のものになっていました。
“旅行をした、楽しかった”
記憶を掘り返してみればその事実は確かにそこにあるのですけれど、いざそのときの感情に浸ろうと思うとそれなりに集中してもう一歩踏み込んでいかなければなりません。
でも自分の姿が写った写真ならば、それを撮影したときの情景も含めて何となく色褪せないような気もするのです。
自分で撮った写真は自ずと一人称の視点になり、誰かに撮ってもらった写真は二人称ないし三人称の視点になります。
つまり誰かに撮ってもらえれば、“写った人(=自分)を主役に据えた物語”を綴じ込んだ写真に仕上がるのかなと。
見る度に色鮮やかな情景が蘇って、一つの思い出を形作るように。
なんのはなしですか。
***
成り行きとはいえ他の人に写真撮影をお願いして、しかも笑顔で写る日が来るなんて思いもしませんでした。
でもそのおかげで嬉しい思い出も増えましたし、この一人旅自体も少し有意義なものになった気がします。
いつかの将来にその写真を見返したときは、きっと鮮明に思い出すのでしょう。
“楽しかったな、また行きたいな”って。