【稽古日誌】-ひきょう-#5

『 - ひきょう - 』稽古日誌

<参加者>
もこさん
けんとさん
ゆーみんさん
あやちゃん
かりんりん
寺原
あきな

<稽古箇所>
・8~9 座り稽古

言葉の印象に引っ張られずに、ただ喋る
──感情は常に複雑なものだから、たとえば「……分からない。」という台詞を、分からないようにやらない。分からないようにやってしまうと、表面的な感情しか見えなくなってしまう。ただ喋る。実感は後からくる。その方が心情の深みが見やすい。観客が思いを馳せる余地が残る(?)。

言葉を「物」として、脳内で分けるだけでなく、行為として、「外に出す」。
──たとえば「田舎で星を見るのは”たま”」が良いか”毎日”が良いか」という何気ないやりとり。この「たま」と「毎日」を2人の中で明確に言い分けていないと、観ている側に生理的な違和感が生じる。
これは、日常では、人は無意識に言い分けることができるため、演技にもそれがないと、会話が成立していないと見えてしまうからだ。
日常、上記のような会話では、人は指差しまではしないだろうが、手でろくろを回したり(=相手に自分が話すことを伝えようと手が動くこと)、あたまの傾きや視線の動きで、なんとなく無意識に振り分けている。だから、演技においても、何かしら2人の中で右左など体の外で振り分けて共有しないと、会話が成立せず、観ている側に生理的な違和感が生じる。

長い台詞は「何を喋るか大枠を捉えて喋り出す」。
──長い台詞では、最初と最後は相手にかけて言えるけれど、中の方では独り言になってしまって、相手にかけることができず、発語はしていても「言えていない」という現象が起こる。ではどうしたら言えるのか。
 そうしたときに、「何を喋るか大枠を捉えて喋り出す」ことが大事になる。これも日常、人が無意識にやっていることだ。長い台詞は、大枠を念頭に置いきながら、常に相手にかけて喋る。もちろんそれを伝えようとするあまり情感的になりすぎてはいけず、あくまでも念頭に置いて「ただ喋る」ことが必要だが、念頭に置くことで、台詞の意味合いが迷子になることがなくなる。途中途中で相手の顔色を伺うことも、独り言になることを避けるための方法だ。
また、台詞は言いこぼしている身体で喋る。言いたいことはたくさんある。イメージは、言いたい事の内、言えていない事が8割,言えている事(台詞)は2割しかない。
──「台詞に情感を込めようとしない」ということの別アプローチ。上の「何を喋るか大枠を捉えて喋り出す」も、裏を返せば、「人は、細かいところまで何を言おうか考えて喋りはしない」ということで、実際に喋っていることが心のすべてではない。言葉を選びながら相手の反応を見ながら修飾したり補足したりして喋り、それでも思いの全部を言えないのが常だ。
 その「言いたい思いをとりこぼしてしまう身体」で、ただ喋る。

シーンの中で無意識に身体の状態を変えない。状況に対応する身体が優先される。
台詞を喋っていると、しばしば状況が見えなくなってしまう。
それは、状況に対応する身体よりも、台詞のニュアンスが優先されて、身体(姿勢、重心の置き位置など)が変わってしまうからだ。
現実に、そのようなことはありえない。状況が変わらない限り、身体は変えない。


<雑感>
二律背反性が、生きていて克服されることはない。その悩みをそのまま言うから、画一的でない心情・真情が届く。
これは、「長い台詞は、取りこぼしている身体で喋る。」のときに、もこさんが話していたことだが、非常に共感するところが大きい。
この二律背反を感じる孤独は、死んでも無くなるものではないと思う。ただそれを抱えた個人に、できれば生きているうちに、寄り添う他者がいれば、どんなに社会的な承認を得ることよりも、しあわせなことだと感じる。


12月9日 寺原航平

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