第3回THE NEW COOL NOTER賞始まる世界部門~10/14講評
第3回THE NEW COOL NOTER賞「始まる世界」部門へご参加いただいている皆様。
本日までで、約40作品を超える応募をいただいています。
応募期間、いよいよ残り1日となりました。
明日の深夜0時、ギリギリまで皆さんのご応募をお待ちしています。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
本日は2つの応募記事へ審査委員それぞれからの講評を掲載させていただきます。ぜひ、楽しんでいってください。
(本日の講評者)
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<講評(愛加ちゃん)>
一読して、涙が止まりませんでした。そして、わたしが批評をすると決まった時、この素敵な作品にかかわれる喜びと同時に、どうしようと迷いも生じました。
よし、書くぞのトップ画像。封じ込めていた過去と向き合うのは、色んな意味で力がいる。蓋をして来たものを直視するのも、直視した混沌とした思いを文字に起こすのも、力がいる。
そして、想像だけれど、きっとこの作品の根底には、止まった時間軸を動かしたい思いが流れている。
そんな力も思いもこもった作品を前に、簡単に言葉を寄せることはできない、どんな言葉も及ばない。
でも、涙が止まらなくなった理由を、わたしなりに書くことはできるかもしれない。そう思って、書いています。
まず第一に、この涙は悲しい涙ではない。
backseat playerさんが、まだ18歳の頃直面した出来事は、決して楽しいものではないのに。
溢れた涙は、どこか爽やかさと温かさを感じさせる。
その昔、大学生の頃属していたオーケストラのサークル(フルートを吹いていました)で演奏した、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」の第1楽章を思い出しました。
とっても厳しい曲なのです。試練が次々と舞い込んで来るような。
でも、その中にふっと現れる第2主題が、とってもきれいで。
なんか泣けてくる、あの涙と似ている、と感じました。
書かれている内容と、読んで感じるものが違う。この、不思議な感覚の正体は何だろう。
誤解を恐れずに言えば、それはきっと、backseat playerさんが生きることを諦めなかった、その思いの強さにあるのではないかと思うのです。
追い込まれた状況の中、ただ必死で一生懸命で、何も考えられなかったかもしれないけれど。
でも、諦めることだってできるのに、そうはしなかった。
いや、できなかったのかもしれないな、とも思います。
なぜなら、backseat playerさんは、知っていたから。
あなたがいることは迷惑じゃないと、守ってくれた、職場の事務長の温かさ。
事情を知っているけど黙ってくれていた学校の先生や、洗濯物が干されているか、そっと確認してくれていた、お父様の友人の存在。
どん底と思える状況でも、一人じゃないことを、知っていたから。
そして何より。
お父様の愛情を肌で感じていたから。
諦める選択肢は、なかったんだろうな。
わたしは、父が好きだった。
どうしようもなく、人の事だけに専念する、子供の日常や学校の成績、そんなものに興味を示さない、そんな父が好きだった。
従業員の方たちのお陰でわたしは、生かされているんだ。
父と従業員の方達が、日々働いてくれているお陰でわたしは生きていられるんだと、そう思っていた。
その思いが、backseat playerさんをして嘆願書集めに駆けずり回らしめた。
嫌な言い方をするけれど。
お父様が自分たちを不幸にしたと、嘆くことだって。
お父様を追い詰めた存在を恨むことだって。
できたはずなんだ。
そんな揺れる思いも、あったかもしれないけれど、でもbackseat playerさんを突き動かしたのは、肌で感じていた愛。
だから、一読したわたしは、厳しい出来事なのに、どこか爽やかで温かな涙を流したのでしょう。
そして、今。
当時を振り返って、backseat playerさんはこう言われます。
わたしも、あまり口にせずに来たが、あの間の出来事は、人間の怖さと優しさと温かさと冷たさを知った。
(中略)
あの当時を振り返ると人が愛おしくてたまらない。
人という存在に、愛情を持っているbackseat playerさんのまなざし。かつてそうだったように、今もまた、職場で看取ったご老人や、家族と疎遠になっていたお祖父様の思いを肌で感じ取って前に進む。
やっぱり、backseat playerさんの生き様には、根底に愛が流れていることを感じずにいられない。
その思いに触れて、再び脳裏をかすめたのは、悲愴第1楽章の第2主題。
あれは、サークルのトレーナーだったか、それとも指揮者だったか。
第1楽章の魅力を、「『ああ、人生って美しいな』と思う」と言われていた。
大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、そこは、チャイコフスキーマジック。
長調なのにどこか切なくて、でも何だか前向きになれる第2主題を演奏していると、そんな気持ちになってくるから不思議です。
backseat playerさんの身に大きな出来事が起きたのと同じ、18、19歳の頃。
バイオリンの奏でる第2主題にフルートの音を重ねながら、そんなことを考えていたことを、思い出しました。
厳しい現実の中に、一筋の光が差し込むような、チャイコフスキーマジックを彷彿とする、backseat playerさんの思い。大切なものをTHE NEW COOL NOTER賞に分けていただきました。ご応募、ありがとうございました。
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<講評(これでも母さん)>
タイトルがめっちゃパワーワードで、はっとさせられました(^^♪
確かにこの言葉はよく聞きますし、目にします。
「がんばっている人に更にがんばれとはなにごとか!」
と怒りながらSNSで発信されている方も多いですよね(;´・ω・)
まこぷーさんは、
たしかに言われたくない気持ちもわかります。
言ってはいけない場合があるのもわかります。
でも…本当にそうでしょうか。
暗黙の了解というか皆の常識という池に、
素朴な疑問をぽつんと投げかけます。
言われてみると確かに不思議です。
『大勢の方がそう仰ってるから、言わないようにしよう』
と思ってたけれど、
「がんばって!」というのは応援する気持を表す言葉であり、
悪い言葉ではない筈です。
まこぷーさんのひとつの疑問が真摯であったからこそ、
私も心を澄ませて読み進めることができました。
子供が小さい頃に、「〇〇なのはどうして?」ってふいに聞かれた時のような新鮮な気持ちにもなれました。
私はどうしてダメって思いこんじゃってたんだろう。
「がんばって!」が負担になる状況の方も確かにいらっしゃいます。
だけど、全部が全部だめなんでしょうか?
まこぷーさんも記されているように、
確かに大丈夫かな?と思ってしまうくらいがんばっている人、
きっと心が疲れてるんだろうな、と見える人、
自分ではどうしようもない病気になってしまった人、
悲しみの中にいる人
には言えないですよねぇ😢
まこぷーさんは
「こういう人に言ってはいけない」
に感じた違和感の在り処を自己分析されます。
「がんばって!」という言葉を
「全ての場合に使っちゃダメなんだよ!」と思っていた人に対し、
「がんばって!」は、ものすごく力になってくれることはありませんか?と、更に純粋な言葉で疑問を投げかけられています。
ずっと見守っていてくれた人から、一歩踏み出そうとした時、
自分ががんばろうと思っている時に応援してくれる時、
どれもうれしい「がんばって!」です。
と続きます。
ふと日常生活を思い返すと、
子ども達に行ってらっしゃいをする時、
娘の発表会や、運動会の前に、試験日の朝に、
無意識に「がんばって!」と伝え、
子ども達は笑顔で「うん、がんばってくるね!」と返してくれます。
お互いにプレッシャーを掛ける訳でも、
プレッシャーを受ける訳でもありません。
単に応援しているよの気持を伝えているだけです。
こういう使い方もあっていいと思います(^^♪
まこぷーさん、
私も「がんばって!」の代わりの言葉が見つからないので、
多くの方が「そう言ってるから」と思い込まずに、
一緒に「がんばって!」と心をこめて言い続けますね!
素敵な気付きをありがとうございます。
多くの方にも優しい気付きが届くといいなぁと思いました!
自称「甘々応援団」のこれでも母でした!!
追伸:
大好きなブルハの「人にやさしく」は私も大好きな曲で嬉しいです。
貼り付けて下さった記事を拝見し、私も共感しました。
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*講評は分担制としているため、必ずしも応募順に講評結果が発表されるわけではございません。よろしくお願いいたします。
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◆始まる世界部門募集要項はこちら
◆応募作品はこちらのマガジンに収録されます。
あわせてこれでも母さんが主催するこちらのマガジンにも収録されます。
他の参加者様の作品もお読みいただき、ぜひ、当コンテストを通して新しく知り合い、また仲良くなった、との声をお聞かせください! 皆様の縁がつながるコンテストでありたく思います。
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