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(記事移植)第2回THE NEW COOL NOTER賞 1/10講評
みこちゃんの引退に伴い、コンテストの講評記事のみ、こちらに移植させていただきます。
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第2回THE NEW COOL NOTER賞へご参加いただいている皆様。
本日までに応募された作品のうち、綾子さんの作品について講評させていただきましたので、掲載させていただきます。
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10年はひとむかし。
少なくともこのような小説を書くには、10年という歳月がどのようなものなのか、感覚的に分かっていないとダメなのだと感じました。
大人しか書けない小説だな。一読してそう思いました。
十年という歳月がもたらすものは、たくさんあるのだと思う。
冒頭でこの小説は、雨が本降りになってきたことを書いているのだが、これが、意思に反して取り返しのつかなくなった10年を象徴している。
しかし終盤に雨は止む。
これは短編が得意な綾子さんらしい、うまい展開だなあと思いました。激しい雨が続いているのであれば、まだそこに二人でいる口実もあったのでしょう。しかし、雨はまるでそろそろ、本当の終わりの時が来たんだよ、と二人の別離を促すように止んでしまう。
雨上がりの虹は美しいものですが、この小説では美しくも物哀しいです。ここに虹を持ってきたのも最後を引き締める上で効果的です。
ただ、綾子さん的な文章をさらに際立たせるには、いくつかのチャンスもまだあるなと感じたこともあります。
実際、由紀の声は震えていたのである。
それは由紀が武史以外の男達と付き合っている最中にも時折蘇って由紀を苦しめたのである。
という極めて三人称的な説明的な描写がある一方で、違う文末も散見されます。
由紀はワザと窓の外に目をやって、雨が小降りになったのを確かめた。
ここから後は、すべての文末に「のである」はなく、すべて余韻を残すような切り方が配置されています。前半部分との文体的な整合性が崩れている印象も持ちました。おそらく綾子さんは、前半部分で、三人称小説の典型的な手法である、神の視点による客観的な状況の説明をされたのだと思います。これこれこういうわけでこうなっています、ということですね。
でもどうでしょうか。
実際、由紀の声は震えていた。
それは由紀が武史以外の男達と付き合っている最中にも時折蘇って由紀を苦しめた。
これでも、状況説明にはなっています。そしてこれは、説明ではなくて、雨の風景のなかに溶け込む「描写」となっていますし、後段との整合性もとれます。
恋愛小説でむずかしいのは、他人の恋バナにいかに読者を引き込むのかということです。
「のである」と書いてしまうと、読者との間に、これは他人の恋愛小説である、という、うっすらとした一線が引かれてしまうようにも思いました。
美術館で、この絵はこういう意図で描かれたものですよ、こういうパンフレットを見ると、納得はしますが、その絵画そのもものインパクトはかえって解説によって後退する、このようなむずかしさが恋愛小説にはあるのではないかな、そんな感じが、この二つの文末を見てしました。
的はずれなことを申し上げたかもしれませんが、なんらかのご参考になれば、とてもうれしいです。