THE NEW COOL NOTER賞~小説講座 第3回「助詞や記号などの表現について」~前編
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赤星先生の「小説作法(文章作法)」について、第3回「助詞や記号などの表現について」をおくらせていただきます。
記号を使う意味とは
「記号」とは、文章表現を豊かにするための、意味を持った1文字です。
でも「言葉」そのものとは違います。たとえば「言葉」という言葉を使った時に、それが具体的にどんなものを指すか、我々は即座にイメージできます。
言い換えれば、言葉は、それ単独である意味を持つものです。
しかし、たとえば、
! や ? や ー(長音) などは、文字としては存在しつつも、単独である”意味”を持つものではありません。それがどういう”役割”かを説明することはできても、単独で使用して何かを表すことはありません。
この意味において、第1回で「……(三点リーダ)」と「――(中線)」で紹介したように、記号は、その文章全体の中でリズムを与え、読者にとって読みやすくするためのものです。
また、第2回でも紹介したように、文章そのものについて、ある程度「こういう場合はこう読む」という、共通化されたルールを表すための目印・標識の役割を果たすものです。
つまり「意味」ではなく、読者に無意識レベルで働きかける「機能」が、記号の大切な特徴です。
無意識レベルで「!」や「?」はこれこれこういう意味である、と読者は、小学校の作文の授業や日々の生活の中で習慣となって刷り込まれているため、普段とは異なる使われ方がされていると、それは無意識レベルでの強烈な違和感となる。
……「強烈な違和感」を使って、逆に読者にある場面や表現に無理やり注目させる手もありますが、それは「抜かずの宝刀」や「核兵器」に近いものでして、使わないに越したことはありません。
第1回で警鐘を鳴らした「……」や「――」の多用以上に、それは安易で、読者の文章を読む呼吸を白けさせかねない、諸刃の刃だからです。
この意味において、「禁則処理」とはまた異なりますが、一般的に認知されている「記号の使い方」においてもまた、「禁則」に近しいルール・慣習が存在します。
それらについて、紹介いたします。
代表的な記号の使い方について
1 !と?について
「!(感嘆符、エクスクラメーションマーク)」は、勢いよく何かを伝えたい場合に、語気を強める様を示します。
「?(疑問符、クエスチョンマーク)」は、疑問や迷いなどを表現する場合に、その心情を示します。
話者の感情を強く強く表現する記号となりますので、基本的には会話文や、第5回で紹介する「一人称視点」などがある場合によく使われます。
これらには、以下のルールがあります。
・『! 』や『? 』という風に、使用後1マス開ける
(ただし文末や閉じカッコ前などは除く)
第2回で述べた禁則<処理>の対象とまではなりませんが、日本語のルールとして、「!」や「?」などは、書いた後にスペース(空白)を入れることが一般的です。
例)
×「聞こえないのか?じいさん、今度は真剣にやれよ」
○「聞こえないのか? じいさん、今度は真剣にやれよ」
思うに、それまでは意味を示す言葉としての文章を読者に読ませていた流れの中で、読み方や機能を表す無意識レベルに働きかける文字としての記号が出てくることで、自然、標識を見た時のように読者は立ち止まります。
そこで、頭が一回切り替わるわけですね、無意識レベルで。
そこから、また元の「意味を示す言葉」としての文章に戻っていく上では、空白を息継ぎの一呼吸のように入れた方がスムーズである……ということが、経験的に学習されて、習慣となったのではないかと一奥は感じます。
ゆえに「~~!」や、文末で使用される場合には、改めて空白は必要ありません。なぜなら、文末から次の文の頭に移動することや、閉じカッコがこの場合は「呼吸」の役割を果たすからですね。
一奥が、実は全編を通して、意味を説明する時には「」で!や?や、……を囲っていたのはこれが理由です。
読者が、違和感なく文章を読み進めていく上で、呼吸を意識すればよい。その呼吸の表現として、「この記事ではこういう書き方で統一します」という、その書き方の統一感が大切である、ということです。
・「!!!」や「???」と多重使用しない
先に述べたように「!」や「?」は、それ単独で、文章の流れの中で、読者の無意識レベルに「こう読んでください」と働きかける機能を持ちます。
つまり「注意を引く」という意味では、1回使えば十分すぎるほどであり、喩えるならば「!!!」という多重使用は、車の運転で、制限速度30キロという標識が数メートルも間隔をあけずにずららららと並んでいるかのようなものです。
これは、いくらなんでも、運転する人からしたら「もうわかったっちゅうねん!」となってしまいそうですね。
それと同じです。
「!」や「?」を使って、読者の読み方に働きかけたはいいものの、それは無意識への働きかけであり、読者は納得してそこで立ち止まったわけではありません。
前後の文脈の中で、なぜ、そこで立ち止まる必要があったのかを、自然に示していく必要があり、その意味で、実は気軽に使ってはいけない表現でもあります。
・「!?」の使用には要注意
ライトな文体などにおいて、時折「!?」と、2文字重ねて使われることがあります。
これは、文字通り簡単と疑問、何が起きたのかとっさに理解できず、激しい疑問がわきあがってきて感情も爆発する(しかけている)様子を表すような場面で、使われる傾向にあると一奥は考えます。
これも、先の「!!!」の多重使用と同じ問題があるのですが――それ以上に、そもそも「言葉を使って読者に何かを表現する」という小説表現そのものの根幹に関わる、少し深刻な問題がここには潜んでいます。
「!」に加えて、さらに「?」を重ねざるを得ない状況に、その話者は遭遇したということは。
その刹那の中で、さまざまな思いが去来し、幾多の感情が交錯し、とても一言では言い表せないような複雑な嵐が、瞬間的にでも訪れているということです。
――小説って、まさにそういう「一言では言い表せないようななにか」を、なんとかして読者にも伝えようとして、様々な表現を工夫するものではないでしょうか。
人によっては、1冊を書き上げるだけで何キロも痩せてしまう。
文字の並びに命を吹き込むために、文字通り自らの命を削ってまで、表現を刷る。
もちろん、全文を通してそうする必要が無い場合も多いですが、それでも「ここぞ」という場面で鮮烈に表現する、しなければならない、そういう、その作品を代表するような箇所というものが、あります。
そんな時に、普段から「!!!」や「???」や、そして「!?」に頼る癖がついていると――そういう「激情が渦巻く場面」を、つい「!?」と表現してしまいかねません。
本当は、そこで作者自身が一旦立ち止まって、その渦巻くものを、なんとかつかみとろうと言葉を吟味・試行錯誤しなければならなかった――そういうものを、作者として、水がこぼれるように見落としてしまいかねないのです。
そして、立ち止まって考えてみて、そもそも「そこまでするほどの箇所ではない」というのであれば、その箇所では「!」も「?」も使う必要はなかった、ということです。
極論、「!」や「?」は使わずとも文章は書けるのですから。
たとえば、
「早くバス停前まで来てくれ、間に合わなくなる」
山田が電話越しに、ものすごい早口でまくしたてた。
上の例文では「!」を使っていません。
使っても良さそうな場面ではありますが、使うかわりに、会話文の次の地の文で、このように表現することもできるのです。
そこで「!」を使うか、地の文で表現するか否かは、その小説や場面全体における文体のテイスト(軽いか重いか)や、テンポ感などから考えて、読者にもっとも違和感なく伝えられる流れとして、吟味すべきでしょう。
2 「ー(長音)」や「~(波線)」について
第1回で紹介した「――(中線)」と異なり、キーボード上でも、Enterキーのすぐ左上の並んでいる2つです。
主に、語を伸ばしたりする時に使う表現ですね。
カタカナ語(外来語)で、語がそのまま伸ばす表現が、日本語においてはほとんど無く(母音を重ねる表記は昔ながらですが、現代ではちと見づらい)、それを表す場面以外では、会話文で使われることがほとんどでしょう。
例)
「お父さんが言ったんだよー」
こう書くと、幼い子どもの言葉であるか、あるいは性格的なおおらかさ、天真爛漫さを持った人物であることが暗示されますね。
先の「!」にせよ、過去回で紹介した「……」にせよ、会話文の中で用いる場合は、それがそのままそのキャラクターの個性を描く記号的な意味も付与されます。
このキャラクターはこういう喋り方をする、というのを読者に刷り込むわけですね。特徴的な喋り方をすればするほど、次に同じような喋り方の会話文が出てきた時に、すぐに「ああ、あのキャラクターか」とわかる効果はあります。
……ただ、これもやりすぎると文章全体がどんどんライトな方向に偏っていくことは否めません。
例)
「お父さんが言ったんだよ~」
「お父さんが言ったんだよ……」
「お父さんが言ったんだよ――」
「お父さんが言ったんだよ!」
「お父さんが言ったんだよっ」
というのも、「!」にせよ「――」にせよ、読み方の標識としての本来の機能ではなく、キャラクターの個性を描きわける道具としてしまっているからです。
言い換えれば、ひとたびあるキャラクターの特徴を「! の多用」で表現して読者にすりこんでしまった場合、その小説では今後「!」を会話文に使う場合には、そのキャラクターが読者に連想されやすくなってしまう。
そういう「制約」を抱えることになります。
つまり、本来の意味で別のキャラクターの「感嘆」を表現しようとする際に、読者が混乱し――さらに読者が混乱しないように、どう表現しようか、と作者までもが混乱するリスクがあるわけです。
……そこまで読んで、なお描き分けられるだけの文章力が身につけば、話はまた別なのでしょうが。
(後編へ続きます)