【小説 喫茶店シリーズ】 Ⅰ. 純喫茶「風車」 (vol.3)
『罪と罰』の内容を訊いておきながら、彼女は、自分のことを話し始めた。
「君、一人っ子でしょ?わかるのよ、何となく。わたしは、姉と二人姉妹なの。姉は10歳も上だから、あまりきょうだいっていう感じじゃないの。だから、わたしは子供の頃からずっと下が欲しいなぁ。って思ってて、よく母に赤ちゃんをおねだりして困らせたわ。母は、元々体が弱くって、ずっと何かの病気で、病院行ったり来たりで、ゆっくり家にいたって記憶がないくらい。だから、二人目のわたしが随分経ってから産まれた時は、親戚中驚いたそうよ。そんなだから、10歳上の姉が実質的に面倒見てくれたって訳。あ、父は、いないのよ。わたしが産まれて間もなく『どっか行っちゃったって』、それ以上あまりみんな言いたがらない雰囲気だから、わたしも小さい時から聞いちゃいけないんだなって思って、、、。で、話戻すけど、母が家に帰って来る度に『赤ちゃん連れてきた?』って訊いてたぐらいだから。ね、あなたわたしの弟にならない?」
と、これだけのことを、目が点状態の僕を前にしていきなり話した。こんな内容的に、普通初対面の人に、それもこっちは客(だよなぁ?)に対して言うことだろうか?
目が点どころか、頭が点だった。こういう時、大人はどう対処するものなんだろうか。でも、僕は僕で、世界文学の荒波を航海中で、先週は、スタンダールの『赤と黒』を彷徨っていた。で、今週は『罪と罰』だから、ちょうどその時の僕は、ジュリアン・ソレルとラスコーリニコフのハイブリッド人間だった。
為すべき事はこの腐った世界の変革であり、その為に自分は選ばれた者、巷間の些末な事どもには関わっていられない。といったところで、精神は冷めていた。
そんなだから、冷徹とも言える言動を物ともしなかった。
「何度も言いますけど、ちょっと顔を離してくれませんか? 僕は、そのとおり一人っ子なので、慣れてないんです。母と幼稚園の先生以外の女性に顔を近づけて話されることに。あ、いや、母も幼稚園の先生も、女性とは言えないかも?だから、」
そこで僕の言葉を遮って、
「わかったわかった、ごめん。で、決まりね。君は今日からわたしの弟。わたしの名前は『きょうこ』。響く子ね、変わってるでしょ。で、あなたのお名前は?」と、彼女はベンチの背もたれまで離れて言った。
こっちの話は完無視状態の八重歯添え笑顔で。
お手上げだ。
しょうがない、それでは今度はこっちの番だと、
「僕は、『ヒロシ』っていいます。分かりやすく博士の博です。で、ご存じのとおり、一人っ子、両親健在、母は専業主婦で、父は地元商社勤務、あ〜この春思いがけず部長昇進、本人が一番戸惑ってます。それから、祖母がいます。まだボケてはいませんが、三年前自分から施設に入居しました。たまに行きますけど、家でボーッとしてるより良いって言ってます。で、肝心の僕の方は、只今、花の高校三年生。理数科進学クラスですが、密かに孤軍社会変革を企て、『文学部』受験を目指し、修行中の身です。だから忙しいんです。弟分というのは、なんか嬉しい話ですが、あまりご期待には添えないかと思われます」
と、応戦した。(「ふう。」スッキリしたぁ)
「ふ〜ん。簡潔ね。やっぱり理数科ね」
それから、ちょっと間を置いてまた話し始めた。
「わたしね、自分が分からないの。どういう人間で、何をしたいのか、どうしてこの世にいるのか、そもそも居場所はどこなのか?、、、此処(喫茶店)ね、そんな私を心配した叔母が、あ、母の妹よ、一人だけいるの。この建物のオーナーで、下の手芸の店をやってて繁盛したの。この建物の元の持ち主から丸々買い取って、倉庫か何かだったこの2階を改装して、わたしにやりなさいって、東京の短大を卒業して帰ってきた時に任されたの。『わたしが心配だ』って。丁度その年のお正月、お母さん、病院でひとりで亡くなったの。誰も間に合わないほど急だったわ。わたしが最終便で駆けつけたとき、すでに母は地下の霊安室で、病室は空っぽ。窓辺に、レモンが一個置かれていた。わたし、それがとっても綺麗でしばらく見とれてた。それから『アッ』って思いだしたの、小さい頃、母が家に帰ってきても奥の部屋でベッドに横になったままだったけど、その窓辺にレモンを一個置いてたのを。わたしが『どうして置いてるの』って訊くと、母は『響ちゃん。レモンは神様の射す光から生まれたの。私たちを護ってくれるの、このレモンの色きれいでしょ、神様の御光なのよ』と教えてくれた。しばらく見なかったけど、最後の最後にまた自分で置いたんだわ。最期は自分を護ってもらいたいというより、わたしを護って下さい。って、きっと祈ったんだわ。わたしへのお別れよ。身代わりかもしれない。見てっ!あの高窓にも置いてあるでしょ。見える?綺麗でしょ。あれがわたしの母なの。毎朝、わたしをレモン色の光で迎えてくれるの。今日も一日大丈夫よ、って」
響子さんは振り向き、高窓を指さした。
逆光に浮かんで、レモンが輝いていた。
(つづく)
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