【小説 喫茶店シリーズ】 Ⅱ. ドトール「新町店」 (vol.6)
「多分、(アナタの)彼と同じようにボクは、世の中の小さな不正や欺瞞が許せないんです。それがテーブルの上にこぼれ落ちて残っている砂糖粒のように、見過ごされがちで、些細な事柄だからこそです。幼稚園・小学校では、『なかよく』『助けあって』『正しく』生きるように教えるのに、いざ子供たちの中に固有の自我が芽生え、体付きも変わってくると、一転。もうすぐ中学だ、『世の中そんなもんじゃないぞ』『もっと強くなれ』。そして、『物事を受け入れて上手くやれ。そうじゃないと人生台無しだぞ』等と言い始める。そんな時、“素直な子ども”は、一体どうすればいいんですか。今になって、アレは全部嘘だった。これが真実だから、もう殻を脱ぎ捨てて飛び立て!とでも言うのか」
「ボクは、幾夜も眠れないで、本当に悩みました。両親や祖母にそんな内心の悩みを言うと心配するので、小学校一年から三年まで担任だった小池先生のところに行きました。小池先生は、三年間ボクのことをとても可愛がってくれて、ボクの自我意識の殆どは、先生の教えで形成されたと言ってもいい位です。四年の時に、隣町の辺鄙な分校に転勤して行きました。その時、ボクに何も言わないで行ってしまったのが、とても残念に思っていましたが、小学校6年の夏休み前にハガキをくれました。『もう中学ですね。だいぶ大きくなったでしょうね。来年の春には、転勤の予定です。この夏休み、できたら遊びにいらっしゃい』とありました。
ボクは、ただ会いたいという以上に、この悩みを相談できる唯一の人のもとへと、大喜びで行きました。母は、小池先生にはとてもお世話になったからと、お土産の大きなスイカを持たせました。その上、遠足じゃないんだからと嫌がったのに、無理やり麦茶入りの水筒を肩に掛けられました。初めて行くそこは、海峡に面した断崖絶壁の景勝地のある小さな漁村です。ボクが暮らしていた内陸側とは景色はもちろん、吹く風も、赤茶けた土に照りつける太陽もまるで違っていました。鉄道を一駅とそれからバスに乗り継いで、トータル一時間もかからない距離なのに、ずいぶんと遠くに来たような気持ちがしたのを妙に覚えています。異国に来たようでした。小池先生はバス停で待っていてくれました。照りつける太陽の下、白地にブルーとレモン色の大きなドットが全体にプリントされているワンピースを身に付け、裾を潮風にハタハタとなびかせて手を振っていました。とても綺麗で、三年前よりよっぽど若々しく見えましたが、ボクとしては、子供心にもこんな辺鄙な所でそれはないだろう。って思いました。そこで降りたのはボク一人で、周りに人は誰もいませんでしたが、久しぶりに会えた喜びよりも、その格好がなんだか気恥ずかしくて俯いてしまったくらいです。でも先生は、そんなことお構いなしに、ボクの手を引っ張って、誰もいない通りを下宿先まで連れて行きました。途中、手を離そうとしても、頑として離さないので、諦めてそのまま引きずられて行ったのです。新卒採用でそのままボクの担任になったので、あの時の先生は28歳位だと思いますが、部屋はこぢんまりとした6畳の和室で、家財は極端に少なくて、小さなタンスと小さな本棚、後は、壁に立てかけてある小さな折り畳みテーブルだけという簡素なものでした。「採点も食事もこれだけで済むのよ。どっちも少ないしね」と言って、先生はその小さな折り畳みテーブルを開き、二人鼻先がくっつきそうになりながらスイカを食べ、話しました。先生が一方的に、お母さんは元気?とか、あれはどうなった?そしてあれは?とか、色々訊いてきて、ボクはただそれに、そっけなく答えていただけなんですが、先生はとても嬉しそうでした。一時間も話した頃、急に立ち上がって、「海に行こう!」と言い、またボクの手を引っ張り出ました。少し行った先に、名前だけは知っていましたが、名勝地の岬があります。海に落ち込む断崖絶壁の先に赤白縞模様の灯台があって、それが海峡の紺碧の海に映えてとても美しい所です。灯台から先に降りていくのが観光ルートになっていて、手すりの付いた階段がずっと先、海面に手が届くところまで続いているのが見えます。でも先生は、手前の背の高い植物が茂っている中を左側に入って行きました。大きな葉っぱの下を頭を屈めながら手を引っ張られるまま付いていくと、茂みの中に階段があって降りていきます。何度かつづら折りに降りていったそこは、断崖を丸くくり抜いたように波に侵食されてできた入り江になっていました。左右には荒潮に削られてできた巨岩の塊が尖塔のように林立しています。それらが陽を遮り、そこだけ空気はヒンヤリとして、まるでどこか西洋の大きな教会ドームの中に迷い込んだような、そんな気持ちがしました。外界と隔絶した静謐な空間なんです。そこの穏やかな波が打ち寄せている丸く滑らかな石ころだらけの浜に、半円形の空を見上げながら二人で寝転びました。先生は、『何かあるとここに来て、よく寝転ぶの。そして健之介のことを思う。背は何センチ伸びたかな?とか、ちゃんとニンジン食べてるかな?とか、そんなこと。なんていっても、健之介は私が育てた子だから、気になって気になって』。そして『来てくれてありがとう。うれしい』と言うと、いきなりボクにキスをしました。ボクは、驚いてしまって、『バカ!』と叫んで飛び起きました。先生は、何事もなかったように、楽しそうに笑って『さぁ、泳ごう!』と言うと、ワンピース姿のまま海にザブザブ入って行きました。そして、音もなく、クロールで入り江の前の海を泳いだのです。水面に吸い込まれるように入る手の先、息継ぎで上げる真剣な顔、魚の尾ヒレのような滑らかに水を押し流す足先と、そのフォームと流れるような挙動は本当に見事でした。ボクは、泳げませんでしたが、その舞踏のような身体動作の逐一に、さっきの事は忘れてしまうほど見とれてしまいました。ずいぶん長い時間に思えました。顔がはっきりと見えない位まで遠くなり、ボクは、先生があのまま沖の方に行ってしまったらどうしよう。もう帰ってきてくれ。ボクは、助けに行けないんだぞ、他に助けを呼ぼうにも近くには誰もいない。あぁ、戻ってこなかったらどうしよう。『イヤ、先生は死ぬ気なんだ』と、不安でガタガタと立っていられなくなって、座り込み、両膝を抱えて戻ってくることを祈りました。ドームの中に打ち寄せる波の音が段々と大きくなり、その潮騒が頭の中で反響して息苦しくなってきました。とても暑かった夏なのに、ボクはガタガタと震えが止まらずどうしようもありませんでした」
「覚えているのは、そこまでです。気がつくと、先生の部屋で横になっていました。先生は、ボクを背負って帰ったそうです。『健之介は、重くなったなぁ』と言ってカラカラ笑っていました。それから、早めの夕食を作ってくれて、二人また鼻がくっつきそうになりながら黙って食べました。帰りのバスの窓から見た先生は、来た時と同じように、とっくに乾き切っていたワンピースを風にはためかせながら手を振っていました」
「それ以来会っていませんが、今もこの街のどこかの小学校に勤務しているはずです。未だに独身でいるそうで、たまに母が思い出したように言います。『小池先生、未だに結婚してないんだって。あんなに明るくて素敵な人がねぇ、どうしてなんだろう』って」
「結局、先生にボクの悩みのことは一言も相談していません。でも、あの時の先生は、確かに『このまま死んでしまおう』としていました。でも、ボクが倒れ込んだのを見て引き返したのです。聞いたわけではありませんが、ボクは確信しています。それから、結婚しないのも、あの時のことがあるからです。それも分かっています。ま、これもボクの勝手な確信ですが」
「それから、後から聞いた話ですが、あの時の異動は、ボクのことを余りに可愛がりすぎると、友人の母親たちが教育委員会に讒言したからなのだそうです」
ボクは、そこで水を飲み、カラカラの喉を潤した。
冷たい水が体の隅々に浸透して行くのがわかり、『生きること』その意味は分からないまでも、『生きていること』は実感できた。
(一杯の水の効用は、計り知れない)
(つづく)