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クールな街にも日は沈む 「かふひぃ・あかねや」  Chapter-1

“あかねや”の一本手前の角まで来た時、気がついた。
私の前を先程から歩いていたご夫人も、行き先は同じなのだと。
しかし中には入らず、立ち止まって覗き込んでいるようだった。

人は、歩いている後ろ姿を見ればだいたい分るものだ。
その人の心の中の大半が、ダークな雲に覆われているのであれば尚更のこと。

この街の住人ではない。
左腕に掛けたケリーバックと、身に付けたピンクのシャネルスーツは、真新しいものではないが、よくその機能と使命を果たし、体の一部をなしている。
存在と質において、その主体と拮抗していた。

立ち止まっている横顔を、見るともなく右目に捉えて中に入った。
マスターの「いらっしゃい」と、
ちょっとかぶった「・・・ませ」があった。

「あれ、新人かい。アルバイト?」
「いやーねぇー、困ってんだよ。先週コーヒーを飲みに来てお代わりまでしときながら、金は持ってないってんだ。それで、揚げ句の果てに、働いて返すから使ってくれって言うんだ」

マスターのべらんめぇーを、その青年は表情ひとつ変えずに聞いている。
お決まりの洗い物だが、店頭のコーヒー豆サーバーのすき間から、ピンクのスーツが目に入ると、その手を止めた。

そのスーツは、身に付けた本人の心情とは裏腹に、スモークガラス越しによく映えた。
青年の瞳にキラリと光が走ったが、それは決して好意的なものではない。
「お母さんかい?」
ギクリ、としてこちらを向いた。

気を抜いている相手に、カウンターパンチを喰らわせるのは好きではないが、その手ごたえ自体は気持ちの良いものだ。
「おっさん何者だい?」
カウンターパンチを喰らったのはこちらかもしれない。
“おっさん”とは、少々応えた。

中嶋 光(ひかり)38歳。
可愛い過ぎる名前が玉に瑕だが、仕方がない。
生まれた時には誰だって可愛い。
待ち焦がれた子であれば尚更のこと。
一緒に暮らした女もいない訳ではないが、結婚などはしていない。
未だ、朝のロードワークと夜のプッシュアップは欠かさない。
学生時代と変わらぬ体形が自慢のひとつ。
酒は飲むが、たばこは成人すると同時に止めた。(ん?)
それが、拘りというものだ。

その私をつかまえて、“おっさん”とは何事だ。
「ハハハ。中嶋さん、“おっさん”なんて言われて怒ってんな?」
「おい宏一、この人を怒らせたら怖いぞ」

このマスターには敵わない。
伊達に永いこと珈琲屋のオヤジをしている訳ではない。
客は、ただ珈琲を飲みにきている訳ではないのだ。
そうであるならば家で飲めばいい。
話さないまでも人は、この世の憂さを、その苦さと共に飲み下しているのだ。
“珈琲”、悲しさを加えると書くじゃないか。
だからこそ、教会と同じように、神聖なる場所が必要なのだ。

「マスター。そんなことより、この若造の母親が店先にいるぞ。入ってもらったらどうなんだ」
「エッ、もう来てたのか?」
マスターが言っている端から自動ドアが開き、ピンクのスーツが入ってきた。

「息子がご迷惑をかけております」
と言いながら。


・・・(続く)


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