はじめてのnote:内向型フリーライター【ほし⭐️うめ】63歳が これまでの内向型ライフで体験してきた ちょっときもちが楽になる話を書いていきます。
はじめまして、こんにちは!
なにはさておき、まずはこのnoteを書く【ほし⭐️うめ】 という人間がいったいどういう人なのか、みなさまに知っていただくために自己紹介をしていきます。
1. ほし⭐️うめの基本性格
まわりのだれもが苦笑せずにいられない極度の人みしり。
そう生まれついたのが、わたしでした。
人みしりコンテストがあったならぶっちぎりで優勝できたでしょう🥳🏆
とりわけ幼いころはひどかった。
親類縁者の語り草になってます。
具体的にどんな感じだったかというと、そうですねえ、たとえるなら…
お客さんがきたら大あわてでどこかに隠れて絶対に表に出てこない家ネコ🐱
てイメージでしょうか。
「顔をみせて〜」とお客さんにリクエストされ、むりやりひっぱり出されでもしようものなら、大抵抗してシャーシャー暴れるような感じ、といえばわかりますかね?
とにかく知らない人が苦手。
知ってる人でも、ちょっと日数がたつとまた人みしり対象に逆もどり。
そんなんでした。
2. ひとりお絵かきライフの保育園時代
実家がど田舎ということもあり、5歳までは、幸か不幸かほかの子どもと会うことがありませんでした。
そのためわたしは、おとなし〜く、家のなかや周囲の川や田んぼで、ごくごく平穏に過ごしておりました。
ところが!
6歳の年にとつぜん、なんの前ぶれもなく、保育園に放り込まれます。
青天のヘキレキです。
なにが起きたのかさっぱりわからず、幼いわたしは混乱してましたね。
むろんギャン泣きはしましたよ。
けれど、抵抗かなわず毎日 かならず園に行かされる。
あきらめたわたしは、とにかく帰りたい一心で、朝からずっと園の玄関先の階段にひとりすわって、外の道をみつめ続けておりました。😅
最初は、「そのうちしかたなくみんなと遊ぶようになるでしょう」と担任先生がふんでいたためか、そのまま放っておかれたのですが…。
いつまでたってもわたしが玄関先にすわったままだったので、とうとう先生が、うちの近所にすむ たまえちゃん という同い年の女の子をつれてきて、「ほし⭐️うめちゃんとおともだちになってあげてね」といってきました。
このわたしに、生まれてはじめてのおともだちができた瞬間でした(笑)。
たまえちゃんとはご近所さんだし、それなりに仲よくあそびましたよ。
けれど彼女は、保育園ではわたしより別の活発なおともだちと遊ぶほうが楽しかったようで、わたしはほぼほぼひとりでお絵かきをして過ごしておりました。
3. やっぱりひとりライフの小学生時代
「もっとおともだちをつくりましょう」
「もっと積極的になりましょう」
小学校時代は、全学期かならず、通知表の通信欄にそう書きこまれていました。
1年から6年まで、1年で3回、かならずです。
「ともだち100人でっきるっかな♪」といくら歌であおられようと、むろん、おともだちをつくりにいくわたしではありません。
だって、ひとりで本を読んだり、ぼうっと景色をながめたりしていても、べつにそれで十分なのですから。
みんなの遊びに「あたしもまぜて〜」と絡んでいくようなモチベーションはゼロです。
そもそも、人の輪のなかに入っていける性格などしてません。
まあ、でもだからといってわたしは、完全にまわりから孤立して自分のなかに閉じこもっていたわけでもなかったです。
こんなわたしでも、保育園・小学校とかよううちに、ちょっとは社会とか集団生活というものにもなれてましたし。
実家が、教師一族だった関係で、基本的には品行方正な優等生タイプをやるようになってまして、まわりに「やれ」といわれれば、あいかわらずの強い人みしりではありつつも、学級委員長でもやれる、という感じでおりました。
だれかに誘われたらことわらず遊びにもまじりましたし、年賀状のやりとりなんかも何人かとは交わしていました。
それなりに社会に適応できるようになっていた、ということですね。
4. 小3 ほし⭐️うめちゃん 「ともだちとはなんぞ?」と考え始める
「おともだちとは、なんぞや?」
小学校3年生のとき、そんな疑問が、わたしのなかに芽ばえました。
きっかけは、お誕生日プレゼントの交換イベント。
なかのよいおともだちには、お誕生日にちょっとしたプレゼントをわたすという習慣が、女子の間ではじまったのです。
かくいうわたしも、やまもときょうこちゃんという、当時となりの席でなかよくしていた同じ内向型タイプのおとなしいおともだちに、ぱっちんどめをわたした記憶があります。☺️
ですが、このイベントをつうじて、ふとわたしは考えてしまったのです。
「おともだちなら、とうぜんプレゼントをわたすもの。というのなら、はたしてプレゼントをわたさなかったら、どうなるのだろう? おともだちではなくなるということなのだろうか?」
「だとしたらおともだちとは、なにかモノを交換することでなりたつ関係、ということなのだろうか?」
顔みしりと、知人と、ともだちと、親友の境界線はどこか?
この問いは、その後もずっと頭にあって、わたしが人間関係を構築して維持していくうえで、常に悩ましい思いをもたらしました。
ちなみに、この問いの答えは、63歳になったいまでもまだ出せていません(笑)。
5. 小5 ほし⭐️うめちゃん “いじめ“ を受け人生に苦悩しはじめる
「人はなぜ生きるのか?」
小学校5年からはじまった同級生からのいじめによって、わたしは次はそんなことを考えるようになりました。
いじめられた原因は、「親が教師だから学校の先生にひいきされていてずるい」ということだったようです。いっときますけど事実無根ですよ。
わたしが、無口・無表情系キャラだったのも誤解を深めたようです。いい気になってお高くとまってるイケすかないやつ感が出てたのだろうと思います。
ただ、いじめといってもそのころは、SNSどころか電話すら町内の有線電話しかない時代でしたから、その内容も幼稚なものでした。教室でわざと聞こえるように陰口をたたくとか、とおりすがりに足を引っかけるといった程度のものです。
しかも、いじめてくるのは数人の女の子限定。ほかの生徒はしらないのか、みてみぬふりなのか、完全ノータッチで、クラス全員からのいじめに発展しなかったのはラッキーでした。
でも、わたしがアンラッキーだったのは、受けていたいじめがそのひとつだけではなかったということです。
実家のすぐ近くに住むひとつ年上の、近所でも素行が悪いことで評判の女の子に目をつけられ、登下校時に石を投げられたり悪口をいわれたりといういじめも受けておりました。
いやあ、もう、とにかくね、こうしてダブルでいじめられていたのは、精神的にかなりきつかったですね。家のなか以外に、安全圏がないんですもの。
学校へ行くのがとにかく苦痛で。
毎日が地獄で。
いじめの事実はだれにも黙っていましたが、ある日、いじめの現場をたまたま親が目撃したことがあって、はじめて「いじめられてる」と打ちあけました。
けれど、世界はわたしに厳しかった。
「それは性格が暗いお前のせいだ」と、逆にわたしが責められたのです😭。
これで家のなかも完全な安全圏ではなくなりました。
勇気を出して担任の先生にも相談してみましたが、先生もまた「彼女(いじめっ子)たちも本当はいい子なのよ。だから仲よくしてあげてね」とコトなかれ主義対応で、あわれ撃沈😭
「ああ、だれも頼りにはできないんだな、わたしを助けてはくれないんだな」
そうわかって絶望してからは、生きているのがつらすぎましたです。
ある日、死のうと思って、自分で自分の首を試しにしめてみました。
すぐに「ムリ!」って、なりましたけどね(苦笑)。
いくら死にたくても、痛いのとか、苦しいのとかはやっぱこわい。
だから死ぬに死ねず、いつもいつもいつも、転校とか事故死を願ってました。
と、つい語ってしまいましたが、要はそのイジメをきっかけにわたしは、友情論とか、幸福論とか、そんな方面に興味をもつようになっていきました。
たしか小学校6年のとき、『幸福論』の文庫版をどこからか手に入れてきて読んだことがありましたが、なにを書いてあるのかさっぱりわからず、1ページ目で挫折したのはナツカシイ思い出です(遠い目)。
6. ほし⭐️うめ 外向型ばりばりのバブル社会の中で自分をさがしまくる
そんなわたしが、小中高大16年の学生生活をなんとかのりこえ大学を卒業したのは、千葉に東京ディズニーランドがオープンした1983年のこと。
この年は、日本が長い不景気からやっとぬけ出して、1986年の12月からはじまるバブル経済へむかって社会が加速しはじめた時期でした。
そんななか、わたしは新卒で就職した地元の小売店を10カ月でやめ、上京してとあるタウン紙のライターとなり、そこで3年間つとめた後にフリーとして独立するというプロセスをたどっておりました。
そのあいだに社会はバブル期へ突入!
世の中はまさに典型的な外向型社会の全盛期✨
企業は「多角経営の時代」といって、専門外分野へどんどん進出していきます。
社会人たちも「異業種交流」といって、企業や専門分野の枠をこえて、ひとりでも多くの人と多彩なコネクションを築くべく華やかに活動しています。
未曾有の好景気に日本中がお祭りさわぎです。
経済的にはすばらしかったかもしれません。
けれど…
内向型人間にとっては、ま・さ・に、地獄の時代でした。😈
わたしのストレスも、経済とともにうなぎ登り。
「外へ出ろ」「人脈を築け」というプレッシャーがとにかくすごくて、自分を変えなきゃというあせりにいつも追い立てられていました。
だからこのころがわたしは一番、本を読みましたね。
スピリチュアル系、哲学系、心理系、宗教系、占い系から、はてはオカルト、心霊系まで。
およそ、自分のこころを強くして、強い性格にかえて、すこしでも社会で生きやすくしてくれそうな分野の本を探して読みあさりました。
世の中の人の半分は内向型というし、たぶん、わたしと似たような人が多かったんでしょう。この時代は、自己啓発系の講座がすごく盛りあがったときでもありまして、わたしもそのうちの一つに参加したことがあります。
ただね、なんかそれについては、弱い人が傷のなめあいをしているような妙な違和感がどうにもぬぐえなくて、1回でやめちゃいました。
7. ほし⭐️うめさん つかれはてた先でキレる!?
バブル経済がはじけたときは、社会は深い傷を負ってしゅんとしてましたけど、わたしなんかは逆に気が楽になりました。
だって、物価は下がったし、社会から追い立てられるような感じがなくなりましたから。
そのせいか、それからは、かつてのように自己探究とか自己改革系の本を読むということは、ほとんどなくなりました。
以降も、その時々で、たとえば有名どころでは『嫌われる勇気』とか新たに話題となる本が出てきてましたが、触手がまったく動かないのです。
たぶんわたし、疲れちゃったんでしょうね。
外向型社会にあわせて、自分をみつめたり、変えたりすることに。
で、ふと、こう思ったんですよ。
なんで内向型の人ばっかりが、いつも自分を変えることにあくせくしてなきゃいけないんだろう、と。
開きなおった、というより、キレた、んですかね??
もう、いいんじゃね?
自分のまんま押しとおしちゃってよくない?
ちったあ、わがままをいわせてもらっても、文句いわれる筋合いはなくない?
自分をとおしたせいで、いまさら誰かひとりふたりに嫌われたところで、もうそんなのかまわなくていいんじゃない?
って、こころもちになった。
40代になるころまでには、「ちゃんと誠実に仕事さえしていれば、必要なときには必要なものが手に入るし、困ったときには助けてくれる人が現れる」ということが、実体験としてわかっていたことも大きかったと思います。
これはふしぎなことなんですけど、そうなんですよ。
たぶん、そうなったあたりではじめてわたしは、外向型の社会にあわせる努力や、人やモノを自分に無理をさせながら必死につなぎとめる努力を放棄して、「自分のままでいきてみること」にチャレンジできるようになったのだと思います。
まあ、できないことが多かったですけど、それでもどこか吹っきれたおかげか、この外向型社会で内向型人間がいきていくということについて、あたらしい視点や気づきをえられるようになりました。
8. 63歳のいまだからこそ気づけることをシェアしたい
それから約20年がたち、いまここにあるのが、63歳のほし⭐️うめです。
人生80年としたら、4分の3がすぎて、残り4分の1というお年ごろ。
競馬だったら、最終コーナーに差しかかったところです🐎
でね、みなさん、この歳になるとですよ、ふっふっふ、なんと「おばちゃんパワー」を使うことができるようになるんですね〜😁
そう、多少ずうずうしかろうが、厚かましかろうが、はじらい感の薄れたおばちゃんならしかたないかあ…と周囲に思わせてしまう、あの「おばちゃんパワー」です❗️
内向型にどうしても不足しがちな押しの強さが、これでカバーできるのだ!
てことで、そのおばちゃんパワーを、ほんのちょびっとだけ利用させてもらって自分を押しとおしてみるようになったら、「なんだ、思ったよりうまくいくんだ」「あれほどおそれることもなかったんだ」「もっと早くからこうしときゃよかった」と感じることもしばしば。
なのでね、そういう、63歳の内向型のわたしならではの知見とか経験とか視点を、これからはこのnoteでシェアしていこうと思います。
それを読んで、なにかしら「へえっ」と納得したり、「ちょっとこれ、自分でも試してみようかな」とプチわくわくしてもらえたら、こんな嬉しいことはありません❣️
これからよろしくお願いいたします😄✨
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