DUNEを見て感じたこと
DUNE 砂の惑星 PART2を観てきました。とは言っても、実は観るのは二回目で、一回目に見た時には整理しきれなかったこと(=何を感じることができたのか、何を感じるべきなのか)を掴みたいと思って、再び観ることにしました。
DUNEに関する批評や感想は、絶賛から酷評まで、もうすでにたくさん出ていると思います。このnoteはそれらに共通する部分も多いかと思いますが、今回は自分の気持ちの整理として、書きたいと思います。
自分も含め多くの人が本作品を観た後すぐに抱く感想は、映像描写や音声表現の素晴らしさだろうと思います。描かれる三つの舞台はほんとうにその世界が存在しているかのような、独立した特質と美しさを持ちます。生命が住むにはあまりに荒廃した、そして生きていくためには信仰に縋るしかないような砂の惑星、白黒の中で恐怖と暴力と権力に支配される、ハルネルコン家の星、そして、静謐さと荘厳さの裏で謀略にまみれた皇帝の星。また、全ての瞬間が、鼓膜を震わす音響とともに、未知なる世界への憧憬をくすぐります。とくにわたしにとっては、チャニの涙によって、生命の水を摂取したポールがー予言が記すようにー意識を取り戻す場面や、砂虫によって皇帝軍を蹂躙する場面は、高揚せずにはいられませんでした。
このような壮大な描写に感銘を受けることができる、それだけでも本作品を見る価値はあると思います。別の形で言葉で表現すれば、厨二心が3時間もの間激しく揺さぶられ続けるのです。
しかし、一度目の鑑賞のあとには、高揚感と同時に、どこか居心地の悪さを覚えました。それは、ポールが歩むこととなった道が、近代社会が否定するものそのものだからだったからです。
ポールは本作冒頭から、予言に記された救世主になることに葛藤し続けていました。その道を歩めば、多くの死者を出すことが予知されていたからです。しかし、ハルコンネンの攻撃やジャミスの言葉を受け、ポールは南に進み、全てを知ることを選びます。それが救世主となることを意味することは、言うまでもないでしょう。
結果的にポールは宗教的熱狂によってフレメンを導き、ハルコンネンを殺し、皇帝を屈服させ、父親の復讐を果たします。抗っていた母の言葉通り、政略的に皇帝の娘を選び、チャニとは決別することになります。ここでのポールの心情はどのようなものだったのでしょうか。宗教的指導者として砂漠の民を解放することにあったのか、父親の復讐をするためだったのか。二つは一体のものだったかもしれませんし、大領家との聖戦を選んだことからすれば、前者に傾いていたのかもしれません。
いずれにせよ、ポールの歩んだ道は、血統主義、宗教的熱狂、戦争と、近代社会が少なくとも表面上は乗り越えようとしてきて、また現在進行形でそうしているものです。決定論的に不可避なものだったのかもしれませんが、しかしそれでも、これまでに述べた壮大な映像効果によって、わたしはポールの道という美化するべきでないものに感動してしまいそうになってしまうのです。(それは、主役のティモシーシャラメの美しさにも助けられているでしょう。)
ここに違和感がありました。感動するべきでないものに感動してしまいそうになる。このことをどう受け止めていいのだろうか、ということです。私は二回目の鑑賞を経て、この創作された感動を批判的に考えるべきなのだ、と感じました。この作品の描かれ方にその手がかりがあると思います。
本作品は全体を通じて、鳥瞰的なだれかの視点から描かれることが多いと思います。全体の描写を俯瞰で提示したり、(詳しくは覚えていないのですが)ポールらしき視点の映像でも、実は少しずれた他のだれかの視点だったりします。
この映像描写は、本作品の壮大さを高めると同時に、だれかがDUNEの世界を覗いている、観察している、と言う印象を与えます。そして、われわれ鑑賞者もその1人となると考えても問題はないでしょう。私たちは、ポールが歩む道を間近で観察し、同時代的に体験していると言えます。
このことから、壮大な映像表現と物語の中に置かれたことで、鑑賞者であるわたしは、前近代的なものに感動してしまうーポールの言葉を受け聖戦へと突き進むー1人となっていたと言えるでしょう。二度目の視聴のあと、この自分の卑小を内省することによって、一度目に抱いた違和感が明確になりました。
あるツイートはこの点についてこう述べます。
しかしわたしは、主要人物の一人称視点で描かれないからこそ、誰かのものだからと言い訳するのではなく、そうするべきでないかもしれないことに感動してしまう自分の粗野な感情をしっかりと受け止めさせることに、本作の描写の価値があると考えます。
その優れた映像や音響に感銘するだけではなく、感動の裏にある自分の幼さを自覚するということ、それがわたしにとって、本作品を観て感じ取るべきことだと思います。