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ピエール=オーギュスト・ルノワールについて

今回は、クロード・モネと並ぶ印象派の巨匠「ピエール=オーギュスト・ルノワール」について詳しくご紹介。

「この作品を作った作家についてもう少し知りたい!」「美術用語が難しくてわからない・・・」そんな方のヒントになれば幸いです。

幸福の画家ルノワール

印象派を代表する画家、ピエール=オーギュスト・ルノワール。

日本でも大変な知名度を誇るため、誰もが一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。

その明るく穏やかな画風から「幸福の画家」と称賛されるルノワールですが、意外にも長い下積み時代を経験しています。しかし、どのような状況下においても絵画への情熱は途切れることがなく、生涯で数多くの傑作を残しました。

ルノワールの生い立ち

ルノワールは、1841年にフランス中西部の町に生まれました。

13歳の時に磁器工場で働き始め、陶磁の絵付け職人として才能を発揮しますが、産業革命の影響で職を失ってしまいます。それを機に、以前から関心のあった絵画の道を志すようになりました。

1861年にはシャルル・グレールの画塾に入り、印象派の絵画制作を始めます。また、1862年には国立美術学校にも入学しました。戦後、1874年に第1回印象派展を開催。1879年のサロン・ド・パリでは高評価を獲得し、画家としての地位を確立します。1880年代からは新古典主義の影響を受け、さらに独自の画風を確立しました。

晩年のルノワールは、病気に蝕まれながらも創作活動への情熱は冷めず、1919年に亡くなるまで精力的な絵画を描き続けました。

ルノワールの経歴と代表作

ルノワールは1854年より磁器工場で働いており、幼いながらも一流の絵付師として才能を認められていました。

仕事をしながら無料のデッサン教室に通い、1860年にはルーヴル美術館で模写の権利を獲得しています。この頃、ルーベンスやブーシェ、フラゴナールなどの色彩派と言われる画家に影響を受けました。

しかし、産業革命の影響で機械生産に移行し始めると、ルノワールの仕事は激減したため、海外宣教師の掛け布や扇子の装飾を描くなどして生活費を得ました。

「夏・習作」(1868)

「ラ・グルヌイエール」(1869)

当時、中流階級の人々が頻繁に訪れたパリにほど近い水浴場「ラ・グルヌイエール」の風景が描かれています。ルノワールはこの水浴場で、水面に反射する太陽光の表現を熱心に模索していたと言われています。

普仏戦争時代

1870年に普仏戦争が勃発し、ルノワールも第10騎兵部隊として戦地に駆り出されました。

しかし、健康不良から1871年には動員が解除され、療養を経てパリに戻ります。ルノワールは粛々と絵画制作を再開しますが、その当時のパリは動乱の真っ只中であったため、スパイと勘違いされて逮捕されるなどのトラブルを経験しました。ルノワールは動乱を搔い潜るように両親のいるルーヴシエンヌへ逃れ、画塾仲間のシスレーとともに絵画制作を続けました。

「ポン=ヌフ」(1872)

印象派時代

戦後もサロンに挑戦し続けたルノワールでしたが、神話や宗教画、歴史画などの保守的な絵画が主流のなか、印象派の評価は厳しいものでした。

そのため、ルノワールは印象派の仲間とともに、自ら展覧会を開催することにします。

こうして開かれた展覧会が、1874年の第1回印象派展です。印象派展を通じてルノワールの作品は少しずつ注目を集めていきます。特に、1977年の第3回印象派展に出展した『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』は高い評価を得ました。

「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」(1876)

パリのモンマルトルに実在する「ギャレットの風車」の名を持つダンスホールでの舞踏会の様子が描かれた作品です。

画中の人物たちは、ルノワールの友人たちがモデルになっています。ルノワールはこのダンスホールの近所に住んでいましたが、大きなキャンバスを持ち運ぶ事が困難な為、現場で描いた小さな絵をアトリエに持ち帰りこの作品を描き上げました。

1877年の第3回印象派展に出品された本作品はルノワールの代表作でもあり、印象派作品の中でも最も有名な名画に数えられます。

「ぶらんこ」(1876)

サロン・旅行時代

印象派展で高い評価を得たルノワールでしたが、サロンでの評価を得られていない画家には画商やコレクターに絵を購入される機会はありませんでした。そのため、再度サロンへの挑戦を始めます。

1979年、裕福な出版業者シャルパンティエの依頼で制作した肖像画が入選したことをきっかけに、サロンで初の高評価を得ました。

画家として不動の地位を確立し、安定した生活を手に入れたルノワールは、1980年からアルジェリアやイタリアをはじめ、世界各地を訪れました。特にイタリア旅行では、フランスの画家ウジェーヌ・ドラクロワやイタリアの画家ラファエロ・サンティに強い影響を受けるなどしました。ルノワールはこの美術探求の旅を、約20年間に渡り続けていきます。

「舟遊びをする人々の昼食」(1881)

セーヌ川畔のレストラン「メゾン・フルネーズ」のテラスの風景が描かれており、特に人物描写に力が注がれた点がこの作品の特徴といえます。のちにルノワールの妻となるアリーヌ・シャリゴが、最も手前で子犬と遊んでいます。

晩年

1890年、ルノワールは7年ぶりとなるサロンに出展しますが、この出展を最後にサロンから引退します。

1897年にはパリを離れ、南フランスのカーニュに家族とともに移りました。関節炎とリウマチにより、絵筆を握ることができなくなりましたが、身体の不自由さがあっても絵画への情熱を失うことはなく、絵筆を手に縛りつけて制作を続けました。

主に肖像画や豊満な裸婦像を手掛け、1919年に78才で亡くなるまでに多くの傑作を残しました。

「幸福の画家」ルノワール

絵は楽しく美しく愛らしいものでなくてはならない」。それがルノワールの絵画制作に対してのテーマでした。

画家としての生活は、決して順風満帆ではありませんでしたが、ルノワールの作品はいつの時代の作品も温かさ溢れる穏やかな時間を感じることができます。また、モネをはじめとする印象派の画家が風景画を描くなか、血色が良く美しい女性、素朴な庶民の日常などを好んで描いたことにも説明が付きます。

ルノワールはフランスの小説家オクターヴ・ミルボーは、1913年に刊行されたルノワールの画集の序文で「ルノワールの人生と作品は幸福というものを教えてくれる」と語っており、「幸福の画家」という称号が広く浸透しました。

ルノワールと印象派

印象派は、19世紀後半のフランスで発した芸術運動です。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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