哲学と量子力学の共通点:ハイデガー
数年前に筒井康隆の”誰にもわかるハイデガー”を読んで以来、ハイデガーが唱える本来的な生き方を強く意識するようになった。
朝出かけるとき、今日は本来的に生きよう、夜寝るとき、今日は本来的に生きられたかな、と日常的に確認するクセがついた。
では、本来的に生きるとは何か。
死を見つめて生きること。
逆に、非本来的、別の言い方では堕落的(ハイデガー用語では頽落的というが、ドイツ語の意味としては堕落という意味)に生きるとは、
死から目を逸らして生きること。
これは頭をガツンと殴られましたね。
だって日常生活のほとんどが、死から目を逸らす堕落的なものばかりですから。
美味しいものを食べる、夢中になれる映画や小説を読む、ロードバイクで気持ちよく走る。全て、嫌なことを忘れて気持ちよくなることです。
それをハイデガーは堕落的と一蹴。
死を見つめるということは、言い方を換えると、現実になる前や後のことを考えること。ここにハイデガーと量子力学との共通点があることに気づきました。
量子力学ではあらゆる可能性がある重ね合わせ状態について探求する物理学です。有名なシュレーディンガーの猫のたとえでは、生きている猫と死んでいる猫の重ね合わせ状態であると。
量子力学では、現実に眼の前に見えているものを信じず、その前、後、その裏側、超越したところに存在する可能性のことを考えさせられます。
夢の中にも、自分が生まれる前の先祖代々、生命誕生以来の記憶が向こうからよぎります。
つまり、眼の前の世俗的な堕落的な物事より、それを超越した本来的、生の前と後の死の世界のほうが、より真実性があり、奥行きが深い。
それのことを考えることこそ、この奇跡のように与えられた我々の限られた人生において、最もすべきことだとハイデガーから教わりました。