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不確実性は神の存在を不可逆的に証明するか?~バスターのバラードレビュー~

バスターのバラード(2018 米)
Netflixオリジナル作品
原題;The Ballad of Buster Scruggs
監督 ジョエル・コーエン イーサン・コーエン
出演 ティム・ブレイク・ネルソン ジェームス・フランコ リーアム・ニーソン ブレンダン・リーソン

時はゴールドラッシュ。
フロンティアが存在し、みなが此処ではない何処かを求めていた時代。

バスターのバラードは6部で構成されている。
腕自慢の、歌う賞金首。
銀行強盗を企てる男。
四肢のない見世物の語り部と、その興行主。
まだ見ぬ金脈を探す男。
未開の地へ移住する兄妹と移住団を警護する男たち。
馬車に乗り合わせた5人の男女。
それは一冊の本であり、連作短編だ。
それぞれの話は独立しながら、その背景とする時代は同じ。
西部開拓時代、多くの人がそうしたように、彼らは一様に旅をしている。

彼らは新しいものを求めた。
いま自分が持ち合わせていないもの。
成功、金、安定、連れ合い。
その旅は”確実性”を求めるために受け入れざるを得ない、新しい価値につきものの”不確実性”だ。
危険はいつも隣り合わせであり、自分の”運”を通貨としなければならない。
私たちはそれが地道な繰り返しに立脚したものだと知っている。
語り部は生きる為に毎晩語らなければならず、金脈を探す男は身を粉にして地面を掘る。
旅はその最たるものだ。
まだ見ぬ何かを求め、いつ手に入るやもわからない不確実なものの為に、長距離で単調な旅を続ける。
一歩一歩確実に、二本の重い足を進めなければならない。
そして”運”が尽きれば、死が待っている。
その不確実性こそが、フロンティアが意味するところだ。
移住団を警護するミスターアーサーと原住民の対決は、それをわかりやすく表象した場面でもある。
地面には無数の穴が空いていて、それを運よく避けられるか、落ちるかで命運は決まる。
そういう世界に私たちは生きている。

コーエン兄弟は常に、不条理性や理由のない死、圧倒的な暴力を描いてきた。
すべてのものに意味を探してしまう私たちを嘲笑うような不条理はときに、彼らの作品の中で物語性を超越したシュールさに繋がるのだけれど、本作ではフロンティアを背景にした寓話として、エスプリに富んだバラードに成立させている。
突然降りかかるそれらに理由はなく、不可解で、理解を超えている。
到底因果とは呼べないそれを前に、登場人物たちと同様に私たちは言葉を失う。
それは今回の主題となる、”不確実性”をもたらすものだ。
そしてそれこそが、コーエン兄弟の信じる、人知を超えたもの、つまりは神のような存在の証明にも思える。
未開の地への長距離の旅をするとき、それを実利的に守ったのは腕の立つものだったろうが、守護したのは神の存在だったに違いない。
開拓団には必ずキリスト教師はいただろうし、本作でも金を掘る男は「神の加護」を歌い、プロポーズでは互いの宗教を確認したりする。
けれど、”人知を超えた力”は、人間にはコントロール不可能なものとして、その御業を想像のつかないものとして働かせる。
そこにコーエン兄弟の宗教観が表れているように思える。

開拓時代に人がフロンティアに求めたものは、現代の資本主義世界における神でもある。
金だ。
その神を求めて、不確実性というもうひとりの神の手に己の運命を委ねるという皮肉がそこにある。
必死に宿命に挑みながら、すべては人の手を離れたところで行われる、神が支配しているゲームに過ぎない。
ディーラーはすべてのカードを知っていて、人は既に配られた手札でプレイするしかない。
ツーペアを手にとってしまったバスターは、そのカードでプレイしなかったけれど、いくら抗っても結末は決まっていたのだも言える。

栄枯盛衰はまた、この作品において大きなテーマだ。
腕自慢の賞金首はいつかさらに強い賞金首の餌食となり、語り部はいつか興行主に愛想を尽かされる。
警護をするガンマンはいつか年老い、必死を免れた男はその運を生かすことができない。
強者は常に入れ替わり、老いを知る。
その悲哀。
新しいものは常に古いものを生み出し、そのサイクルから外れてしまう
私たちもいつか、あの語り部のように川に落とされる日が来るやもしれない。

連作の一番初め、『バスター・スラッグスのバラード』の終わりは、大体こんな言葉で締めくくられている。
『バスターを殺したTheKidは、いつかまたもうひとりのTheKidに出会うだろう。それはまた別の話だ』
これはやがて私たちを捕まえる死神の正体になりうる。

この物語は、この時代特有のものではない。
栄枯盛衰は常に起こり、私たちはフロンティアを探し続けている。
そしてフロンティアはいま目に見えるものではなく、例えば市場経済や芸術など不可視な世界として存在している。
そのなかで、まだ見ぬもの、成功がどこかにあるのではないか、と私たちは不確実に足掻き続けている。
カネや安定がある程度行き渡った現代に、人々の欲求は自己実現や自己承認など、より高次なものへと変化している。
私たちを支配するもの、その見えざる手。
事象は変わってもその本質は変わらないという事実こそ、コーエン兄弟がこの物語を”いま”語る動機なのかもしれない。

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yky@映画紹介、ときどき違うこと
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